蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№472 出会うこと、恩寵

あなたは必ず愛と共にあれ 
死なぬよう
愛の裡に死して 
愛の裡に生き続けよ       ジェラルッディン・ルーミー 

 

  

中目黒に滞在中である。
お兄ちゃん宅。奥さんと話し、食事を共にし、隣で眠る。ほんの数日であっても、そうしたいから。

逝去した人と初めて出会ったのは、五反田のとある研修施設だった。12年前の初夏のこと。

今その研修のことを思い返すと、目が回って卒倒しそうである…。当時すでに私はウィルバーを手に取っていた。規夫師匠にお会いする2年前のこと。当時の自分がもう少し賢かったならば、堪えて統合理論のみに向かい得ただろうか。

が、しかし、バカだったからこそよかった!ということも世界にはあり、今日はそんな話。

理性的には思い出したくないその研修は、身体を張った体験型(得意な分野)だった。
なんだかいつもはやらないようなことを、いつもは一緒にいない人とやって、ワーッとなったり泣いてみたりして変性意識状態を作り出し、やった感・変わったかもしれない感を生み出すが、実際には一瞬状態が変わっただけという、よくあるやつ。

研修の導入部で、要するにグループ分けをしたかったわけだ。そのために、あいうえお順とか身長順とか自衛隊みたいなことはせずに、「ここの線から向こうの線まで、好きな方法で行け。ただし、他の人とは違うやり方で。」とまず求められた。

そういうことなら私にはアレしかない。このグループのなかには、現職もOBも例の職種関係者はいないわけだから、たとえ順番が100番目でも私には選択肢が残されている。

ということで、やった。
匍匐前進を。しかも第1から第5までのフルラインナップ。なんでもやるときはいつも真剣である。第1~3匍匐は姿勢が高く、敵に補足されないように高速移動が肝要となる。かなり速い。そのとき履いていたパンプスの飾りは、壊れて飛んだ。

そんなこんなであっちの線に移動して、「こいつがリーダーだ!」と思う人の前に並べ、というようなことを言われたとき、私の前に8人くらいの人が並んだ。
説明が長くなったが、この中の3人と今に至るまで長く親交が続き、そのうちのひとり、一番前に立った人が亡くなったお兄ちゃんである。

 

今日はその3人のひとりと出会った。そしてお兄ちゃんの弔問に来てもらった。明日、もうひとりとも会える予定だ。

なんであんな研修に大枚はたいて行ってしまったのか…と思うときもあるが、この人間関係を前にして私は口を噤むしかない。
もしかすると17年自衛隊にいて、教官として人より少し多く匍匐前進をすることになったのも、こういう仲間と出会うための絶妙な采配であったとあの世で絶対者ブラフマンに言われたら、深く納得して「絶対者ブラフマンに帰依します。すべて御身のお心のままになりますように。」と、ひれ伏して言ってしまいそうである。

 

人として生きることは、大いなる存在の関係性という織物のなかに編み込まれること。
誰も意味なくして会わないし、会うべくして会い、お互いの存在のなかに秘密を見るようにしてすれ違ったり、愛し合ったり、傷付け合ったりする。

 

お兄ちゃんの人生は標準(というようなものがあるとすれば)よりも短かったが、私が私として生きること、そして何より、人と共に生きることについて大きな宿題を私に与えた。

痛いくらい誰かのことを案じて気が狂うようになってもよいし、我が子を強く抱きしめようとして嫌がられてもいい。それは誰に対しても無理やり義務感から行うものではなく、自分のなかに浮かび上がるものに蓋をしないことでもあり、嫌われたらどうしよう、ひとからどんなふうに思われるだろうという心に浮かび上がる恐怖と共にあることであると思う。

 

今この瞬間、会えてよかった、長く一緒にいたい、もっと親しくなりたい、という思いと共に心に浮かぶ人たちを、肉体をもって行える行動と共に ~~言葉を送る、言葉を交わす、会う、一緒にご飯を食べる、触れる、手を握る、ハグする、愛し合う… その関係性に許された多様なやり方で~~ 大切にすることを、真剣に考える。

人が出会うとは、大変なことである。
まさに恩寵である。