蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№384 どちらかなんてない

「万処に遍在する空間が微細である故に汚されないように、体中の万処に存在する真我(アートマン)もまた汚されることはないのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-32

  

現代では健康を目的にヨーガを始めることが多いが、不調という片方の極から、健康というもう一方の極である健康を目指すのは、実は危険な行為である。

バガヴァットギーターの主要な教えは、行為の結果を放棄すること、そして二極の対立を超越すること。
どちらかが良いとか悪いとか考えることから、卒業するのだ。

健康があると認めれば、不健康なるものが確かにあると認めることになるが、実のところそんな明確な状態はないし、そのように考えることで欠けることのない満ち足りた存在であるはずの自分たちを、不安定で不確かな存在に貶めてしまうことになるだろう。

身体に変化をもたらすためにイメージの力がとても役に立つことは、優れたプレーヤーの実践を通じてよく知られているが、もうひとつ、万物の切れ目ない一体性をただ認識することも有効だ。

マトリクス・エナジェティクスと呼ばれる心身を癒す技法があるそうだ。
私は書籍で読んだことしかないけれども、その言わんとするところはよく理解できる。

例えば痛みや症状とは、実のところなんなのか?
痛みは患部で感じていない(脳が感じている)。
科学的な医学で治そうとするけれども、私たちがいったいどこからやってきてどこへ帰るのか、命とは、生きていることとはどういうことなのか科学的にはわからない。ではなぜ病だけは定義できると主張するのだろう。
私たちは考えもつかない不思議な存在であるという原点に戻ることで、人の心身を癒すことができると考える。そういうことが可能かもしれない、という余裕を自分のなかに作ってみる。

そもそも私たちは、心臓内の小さな空間に住いしつつ、人間の心身をはるかに超えた力を有するアートマンである(ヨーガ風に表現すると)。
量子物理学の見方では、とてもちいさな「何か」があるときは波として、またあるときは粒になったりしつつ存在しているエネルギーの“もや”のようなものが私らしい。

なにかをなにかたらしめる元となる微細な物質と、それをひとつの“もや”として結集させているちから、それこそが自分なのであることを私たちはうっかり忘れてしまっている。

忘れてしまっているので、そもそもの根っこのところにつながり直して思い出さなければならない。そのことをサンスクリット語ではヨーガと表現した。世界中に実に様々な「思い出し方」があるようだ。
こういうものは探しに行かなくてよいもので、ときがきたらあっちから勝手にやってきてくれる。きてくれたのに「他のものがいいなあ」と思うのもありかもしれないが、せっかくのご縁だから出会ったものをそのまま受け容れるのが良いと思う。

さて、目というものがそもそも見えるモノでできており、自分と同じ仲間であるモノしか見ることができない。この「見る」という行為がまた胡散臭い。見たことがないものは、既に見たことがあるようなモノに変換したり、まったく初めてのものは見えなかったりするという脳の働きを通じて、私たちは「見る」という行為を行っている。あまり信用がならない。

だから目を閉じて、感覚器官に惑わされず、経験を分類せず、考えることからも離れて、ただ、今ここに存在するだけのモードに入る。
すべてのものは理由あってここに存在し、すべてが結び付いている。
私もひとりではないし、誰もひとりではない。

今朝、足元に転がってきた小石ですらも、この万物のダンスの中で私のもとへやってきた。
すべてのことに意味がある。意味は分からなくてもよい。ただ。二極に分類してわかった気になることもしない。

意味は確かにある。その意味がわからなくてもいいから、いまここに確かに存在しているという安心感に安らいでみる。
自分にとっても、目の前の誰にとっても、たぶんこれ以上の癒しは無いと思う。
根源的なものにしっかりと立っている感覚。