蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№504 いいこにはなりたくない

約束の果たされぬ故につながれる君との距離をいつくしみおり  辻 敦子

 

 

 

12月9日

新しい方とのセッションが始まった。初めてのリアルセッション後、赤坂見附へ移動し”よなよなエール”で乾杯。何冊もご本を出しておられる方なので、「第7章辺りで、今一番の興味関心について書くといいよ」と言って下さった。うん、7章はこれで決まり。
なぜ、そんな後ろめのところかというと、一番書きたいことにまだ時代がついて来れない気がするから。


セッションを受けてくださっている方には、毎日、私にメッセージを頂戴ねとお願いしてある。交換日記のように。一見大変そうなのだが、結構皆さんまじめに送って下さる。先生にメッセージしないと叱られる…、と思っておられるのかどうかはわからないが、メッセージを書くために、一瞬自分の内側の感覚に意識を向けることができるはず。それを繰り返していくことで、心身の声を聴きとれる聴力を上げて、自分自身の専門家になってもらいたいから、こんな宿題をお出ししている。

 

私はヨーガ教師という看板で仕事をしているから、生徒さんも体のことばかり書いてこられると思うかもしれないが、そんなことはない。ほんとうにいろんなことを、皆さん書いて下さる。だってカラダは存在の一番外側のカバーみたいなもので、その内側にあるもっとエネルギーが強いものの影響を受けて、今のような状況になっているだけだから色々と複雑なわけがあるのだ。

ほんとのところはカバーというよりもっと大事なものであって、「魂の宮殿」と言われている。アートマンが座す、宮殿。からだのことをそんな風に考えたことがおありだろうか? 大事な場所、空間だから、いつも自分のなかの美しさと調和させ、居心地よく保っていたい。ただそこにいるだけで、安らげるようでありたい。

ところでまったくの余談。「壺」と言う字には「宮中の通り道」という意味もあるらしい。源氏物語で親しんだ宮中内裏の五舎は、飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺
)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)、襲芳舎(雷鳴壺)と、壺庭に植えられた植物の名によって呼ばれた。皆様の宮殿には、どのような美しい植物が咲いているのであろうか。

 

さて、だからヨーガは(少なくともヨーガ療法は)、カラダなんて治そうとしない。
だってカラダはモノだからそんなにパワーがない。パワーがないところに働きかけても時間がかかるし、そもそも役にも立たないことが多い(心当たりがある人が、いっぱいいると思う)。もしかすると、世のなかのカラダに対するアプローチはみんなそんな感じではないかと思うのだ。残念ながら。

ではヨーガではどうするかというと、その内側の、存在の中心に近い歓喜鞘か理知鞘に注目する。大概その二つの鞘の影響を受けて、意思鞘、生気鞘の働きが障害され、結果的に食物鞘(肉体)が壊れていくから。

だからヨーガ療法士には見立てが必要。そして、自分の見立てに、自信と責任を持つことが必要。この方の、どの鞘が傷害した結果、その心身の症状が生まれているのかを対話を通じ、見極めていく。見立てによって、指導内容(体操などの行法)にも、関わり方や用いる言葉にも違いが出る。

 

ヨーガの目的は、ヨーガ・スートラに示してあるとおり「心の働きの止滅」である。
先日、私の方がS田さんにダルシャナをしてもらっているとき、私の心の動きの実に派手な様子をご覧になって、「止滅でしょ」と諭して下さった。うん、そう、ほんとに。
また、若すぎると言って下さる。50代の大台に乗ると楽になれるし、その先もきっとそうだと。確かに60代の方の安定感半端ない。爪の垢を煎じて飲ませて欲しいくらい。

そういえば、我がグル・慧心師は、以前いつも「早く年を取りたい」とボヤいておられたという。今、師は70代になってものすごくうれしそう。すごく元気。70代でも、師の師、スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師が遷化された99歳には約20年近くの年月があるから、余裕だと思っておられるような気がする。40代の私なんて肉体年齢が少し若いというだけが取り柄で、心のなかが折々に大変なことになる。

でも、止滅って、ほんとに、心が穏やかになることなのかな?

 

生きるということを十全に味わって、そこに生まれ出でるものを決して抑え込まず、枠にはめずに生きたい。荒れ狂う海を見る視点を持ちつつ、時に海が荒れることを嘆かないように。
ダイナミクスが大事、というのは規夫師匠からの教え。もし私の中身が若すぎるせいで、幼稚な心的エネルギーが若くてバカな猿みたいに暴れまわっているとしても、ちょっとその若猿と一緒にやんちゃしてもいいかな、と思ってしまう。

私が現時点で一番怖いのは、今、ここに立ち上がってくるものの体裁をきれいに整えようとして、ネガティブな残存印象を心素のなかに溜めていってしまうことだ。それが一番怖い。無駄にシャドウを積みたくない。嫌なら嫌と言って、そういう側面も自分のなかに在ることを認めていきたい。抑圧された心のしっぺ返しの方が怖いから。心的なエネルギーは、現実も壊してしまうくらいの威力を持っているから。

 

心のなかが、きっちり整理がつくことはないと思う。
そもそも心なんてそういうもの。きれいに上品に生きようとしたら、たぶんそこに影ができる。影は、茶室のなかの侘び寂びの風情としてだけでいいと思う。自分のなかに新たに作らなくてもいい。

 

だから時にシロクロ付けたくなったり、しょんぼりしたり、大事なひとを困らせてしまったりする。申し訳ないな、と本当に思う。でも、歓びと哀しみの大きな極をしっかり客観視しながら、そこに生きていたい。小さくまとまってしまいたくない。

 

ちなみに、慧心師はものすごい毒舌で、私は内心「ブラック・キムラ」という愛称でお呼びしている。いついかなる場面でも、思っていることをスパッと言ってしまうから、ご子息の結婚の時なども、周囲の方が青ざめるようなことがあったと聞く。慧心師がまだ若い頃のお弟子さんも、薫陶を受けてかかなりな毒舌。これが私の整体の先生である。あんまりハッキリしすぎていて、いつも笑えてしまう。

 

芸の世界では、オブラートで包んだ表現をすることが美徳なので、伝統的ヨーガの歯に衣着せぬ世界との双方に関わることで、おおきな視点から調和がとれていると感じる。

心の止滅って、いい子になることじゃないと思う。
浮かんだものを、ジャッジせずに見つめるということ。
だから哀しい、苦しいということも悪いとは思わない。なんでダメなんだろう? 苦しいとか嫌いとかいうことが。
二極を超越することは、一方の極だけを選ぶこととは違う。穏やかでありたいと私は思わない。大事な局面では喧嘩も辞さないつもりで生きていたい(わざわざしないけれど)。

波のように押しては引くエネルギーの顕現として、私はここにいる。

でも、ほんとうに私が50代になったとき、S田さんに「すみません、間違ってました。」と謝ることになるかもしれない。そう思えたら、ちゃんと素直にそう言いますね。でも今はまだ抵抗しておきます。

 


ところで私は今年「年女」である。子年の生まれ。
知人が易かなにかを学んでいて、干支を解説している本を見せてもらったら、私の生まれ年は子は子でも「溝鼠」とある。真っ白で小ぶりなハツカネズミ気分だったのに、かなりショックである。

昔、生徒さんに占い師さんがおられて、「子年の人は衣食住に困りません」と言われ、そりゃいいや!と思った。食べ物が集まり、美味しいものを食べさせて下さる方がいてくださるのは、もしかしたらそのせいかもしれない。ちなみに子年のひとにこのことを話すと、みんな「自分もそうかも」と仰る。

溝鼠年(壬子)は冬の北海のようなエネルギーで、海のように深く万物を包む。2032年にやってくる。
2020年は庚子年、新たな芽吹きと繁栄のはじまりのエネルギーという。こんな年だったが、息吹を感じておられる人もきっとおられることだろう。