蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№383 無駄に考えないほうがよさそう

アルジュナよ。我を超えるものはないのだ。宝珠の列が糸に繋がれているように、この全宇宙は我に繋がれているのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅦ-7

 

身体的な実践を行っている人は多いと思うが、その活動が心を制御する目的と共に行われているだろうか。

自分にとって望ましい未来を祈らない人もいないと思う。
そのためにも、心にほしいままにさせない方がよい。

では心をなんとかするには何をしたらいいのか。
自分の思考を制御すること、そしてそのために「集中」という道具に習熟することである。
考えてばかりいる場合、考えが浮かんでいること自体に気付かない。
なので集中することから始める。

頭なのか心なのかわからないがおしゃべりがうるさい、ということになっていやしないだろうか。歯を食いしばる癖がある方や、頭皮がガチガチに固くなっている方は、その傾向が強い。

心が身体に対してもつコントロールを垣間見せてくれる興味深い医学現象に、プラシーボ効果がある。
プラシーボとは、からだに対して何の効果もないが、患者をなだめる目的かあるいは二重盲検法による実験における対象基準として与えられる医療処置のことだ。

ひとつのグループには本物の処置を与え、もう一つには偽の処置が与えられるもので、こうした実験では本物の処置の効果をより正確に評価するために、研究者もテストされる人間も自分がどちらのグループに入っているのかがわからないようになっている。薬剤の試験ではよく砂糖の錠剤がプラシーボとして使われる。

プラシーボは必ずしも薬とは限らない。正当医学から離れた療法から得られる医療効果もプラシーボ効果だと考えている人も多い(ヨーガとか?)。

外科手術でさえプラシーボとして使われている。
1950年代、ある独創的な医師たちが、狭心症の治療のために行う胸部動脈の結束手術でひとつの実験をおこなった。患者の胸部を切開し、何もせずにそのまま元通り縫合してしまったのである。
ところが、このインチキ手術を受けた患者も通常の完全な手術を受けた患者と全く変わらないくらいの症状の改善を報告したという。

そういえばヨーガ療法学会の2016年研究総会は「循環器疾患とヨーガ療法」というテーマだったが、日本一バイパス手術をしているというS記念病院の医師が「手術は成功しても、心臓病が治らない場合がある」と語っていた。

インチキ手術で良くなってしまうラッキーな人と、本当の手術を受けても楽になれない人を分けているものがなんなのか、知りたいではないか。

ちなみに私は煮えたぎった油に掌を入れるという行を体験したことがある。
その油で揚げたイモの素揚げを食べるので、油が煮えていることは間違いないのだが、実際の感覚はお風呂に浸かったようにほんのりと温かいだけである。

熱された油に手を突っ込むとき、なにを考えているか?

疑いは禁物であるということ、自分よりも偉大ななにかが存在しているということ、自分は守られているのだということ。

私が恐怖を覚えれば熱が肉体を傷つけることになるだろうが、そんなことは絶対にないという確信を持っているから、熱いはずの油に掌を入れることができるのだ。

自宅でからあげを揚げながらこんなことはやらない(怖くてできない)。
ある状況を付与されなければ決して果しえないことが、確かにこの世にはある。
凝り固まった頭では、決して理解も説明もできない心身の変化というものも現実では生じる。

これはなんの力だろうか。
行を仕切るご導師様の力だろうか? 経を唱え続ける人々の力だろうか?
それとも私自身に内在している力だろうか? この宇宙を支える力だろうか?

私たちの心には、イボを消し去り、気管支を通し、モルヒネの鎮痛効果を再現する力が備わっているというが、それを自覚していないため何かの舞台装置を調えてもらわなければその力をつかえないのである。

「そんなことありえない」と考える心の働きに待ったをかけて、しばらく黙っておいてもらう練習が大事なのかもしれない。どうせ考えてもわからないのだったら、どうやったら良くなるのかなんて考えなければ良いのだ。

遺伝子は私たちの思考に聞き耳を立てており、考える内容によって病気を生んだり治したりしているそうだから、まずやらねばならないことは役に立たない思考を黙らせることである。

そのためにからだを使えば、健康にも役立つし一石二鳥である。
単にからだだけのためにヨーガを使ったりしていては実に勿体ない。
からだだけをなんとかしようとするより、何を考えているか、もしくは考えていないかの方が大事だ。