蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№498 求めること

月に立つ君のそびらのひとつほくろ告げざれば永久にわれのみのもの  青井 史

 

 

 

叱られた。ラージャ・ヨーガの大先輩に。

数日前から左胸の下部(肝臓のあたり)が痛み、呼吸をするときにも違和感がある。やたらとため息が出る。ああ、いったい何の心労だろうと思い、鍼の先生にも診て頂いた。「満たされてないんだねえ」と言われ、ああ、満たされてない自分が可愛そう!と思った(Yoga教師のクセに)。
週末の出張までになんとか体調を調えねば長い旅に耐えられないと思い、いつもの整体の先生にも助けを求めた。時々首や腰をゴキっとやってくれるみたいに(注・いつでもなんでもゴキっと鳴らすような施術をする方ではありません)、今回もバシッとなんだか劇的な施術で私を楽にしてよー、という依存心いっぱい。

「いつもはやらん動きしたでしょ」 
…ああ。

先生、やりました。トリコナーサナ(三角のポーズ)。
外腹斜筋が傷んでいるとのお診たてである。確かにあのとき左脇を引っ張った感覚があった。また過伸展。自分のせい。プラーナのことを意識化しながら動いていなかったということ。いつもこれ。なにが心労よねえ、やれやれ。

ケガをするときは、いつも過剰なストレッチから。今の自分自身を感じず、“なんとかしたい”という意思を優先させているから。こういう痛みはなかなか去ってくれない。痛みを痛みとしてではなく、ある行為の結果生じた“違和感”としてただそこに在るものとして取り組んでいくしかない。いつか治っているだろう。私の外腹斜筋、乱暴な私を許してね。一緒に元気になろうね。

 

 

 

しばらく前のある経験が、心に楔のように刺さって抜けない。ちょっと血が滲むような。

時間が経てばあらゆる経験が昇華するような訓練をYogaで受けてきたが、残念ながらYogaが教えてくれる役に立つ方法は、どれもこれも時間がかかる。
でもいつかこの経験がもつ意味と、なぜ、このときにこのことが、自分の人生に起こったのかを理解できる日が来る。幸いなことに、若い頃の過酷な経験と比べれば、甘やかな救いを伴っている。葛藤させられながらも、自分が歩んできた道は間違っていなかったという気持ちにさせられることも、この世にはあるのだと知った。

Yogaの思想では、過去の記憶は「心素 チッタ/Chitta」という器官に保管されるといわれている。心素は、自己存在そのものであるアートマンと共にあり、そばには「我執 アハンカーラ/Ahamkara」がある。

私、という個別のものがあるといういわゆる自我の概念と、過去の記憶が絡まることでそこには執着が生まれ、苦しみが生まれる。人が生きていれば毎日記憶は蓄積していき、心素の中身は腐敗することもあるかもしれない。Yogaとは実のところ、生涯にわたるこの心素の浄化である。過去の記憶という内容物を日々取り出しては、改め、浄め、そして心素に戻す。同時に、Yogaは我執を手放していく試みである。

なので、私の偏った意見かもしれないが、伝統的にYogaが目指してきたものはシャドウワークそのものなのであり、自らのうちに蠢く日の当たらないなにものかと対峙するために、なにがなんでも体とエネルギー(食物鞘と生気鞘)を調えていく必要があるからこそ、ヨーガ行は日々の振る舞いの精査や肉体の扱いから始まるのだと思っている。

心素を浄め、我執を手放そうとする、この二つの営みが絶えず行われていく先に、自己存在そのものの純粋な光が自ずと発するといわれている。本来の私(自己そのもの、アートマン)が発する光は、肉体を始めとする五臓を超えて輝き出す。

 

 

縁あってこの道に導かれた私は、過去というものを素材として考えている。
なぜ、ある経験に対して、今の私(いつか死ぬ私)は、そのような解釈を施すのかを考えてみる。なぜ、そのことに心を煩わし泣くのか。胸が震えるような心地がするのか。過去の私の経験から生まれ出ている現在のこの視点は、なにを見せ、なにを隠しているのか。
それを少し離れたところから、決して滅びない私が見ている。

 

ただ問題がある。Yogaのような取り組みを真正面に据えて生きる者の人生は、ダイナミクスに欠ける。それはその行の初めにある戒律(ヤマ・ニヤマ)を狭い解釈で捉え続けることから生まれる不自由であり、地獄だと思う。

かつて規夫師匠は私の瞑想を止め、ここしばらくは心身をもって人を愛することから逃げないことを促し続ける。戒律という隠れ蓑を振りかざして、生きるということの生々しさや激しさ、そこから得られる胸の高鳴りや快感を避けていたら、すべてを含んでいるはずの存在には影が生まれていくだろう。

 

自分ひとりで修行をして向かえる世界を目指したあとには、目の前のひとと手を取り合って、その瞳の奥を見つめたいという思いが生まれて欲しい。ひとりでは決してなしえないことを、誰かと共に行いたいという思い。

誰かと一緒に世界を体験するということ、この人と真にわかりあいたいという望みが、簡単に成就するとは思わないけれど、自分のなかのブラフマンとだけ愛し合いたいと思っているのならば、それは安易な愛だと思う。

 

Yogaは晩年に林住期というものを設け、すべてを捨てて森に入るように教えている。我が師もまたその希望を口にする。そこに影はないのだろうか。こんなことを疑問に思うことが僭越だということはわかっている。でも、あえてそう思ってみたい私がいる。

 

フロムの「愛するということ」という書籍のなかに、私の大好きなイスラムの詩人・ルーミーの詩がとり上げられている。一部を紹介してみたい。

 

 人が恋人を求めれば、かならず恋人から求められる。
 こちらの心に愛の稲妻が射し入るとき、相手の心にはかならず愛がある。
 片手のみでは手を鳴らすことはできない。
 万物が対になっているのは、あらかじめ定められたこと。
 万物は愛しあい、補いあって、仕事をなしとげる。

 

カルマ・ヨーガの聖典「バガヴァッド・ギーター」は、二つの極に分かれたものの対立を超越せよと教えている。私たちは常に自分の視点を制限するものを意識化し、それを超えていかねばならない。

そもそも一者はなぜ自らを二つの極にわけて、世界に顕現させたのだろう? 
そのことを、私はいつまでも考えていたいと思う。

 

フロムの先述の書籍のなかから、もう少し言葉を紹介したい。
誰かに指導をさせて頂くことも、子供と向き合うことも、憧れている人と言葉を交わすことも、すべて私にとって愛の行為だから、恐れることなくそこに飛び込みたいと思わせてくれる。

 

  人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすこと。

  こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を
  委ねること。

  愛とは信念の行為。

  愛は能動である。