蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№310 世界と向き合うパターン①

世の中はコロナウィルス対策のために大わらわである。多くの用が延期やキャンセルになって、思わぬ静かな時間を与えられた。ここのところ私は、幼少期からの「不安がる」パターンから解放され、物事をそのままに受け容れられるようになったので、のんびり過ごせることを素直に喜べる。以前であれば不安が高じて具合が悪くなっていただろう。

数日前、海外に住む知人から「エンパス」について聞いた。初めて聞く言葉だった。感受性が強い、繊細過ぎる、という表現をされているが、トラウマ的な体験を通じて、世界との向き合い方をごく慎重にすることを本能的に学んでしまった人たちなのではないかと考えている。自分の声をうんと小さくして世界に向き合うパターンを、無意識のうちに採用してしまったのではないか。

トラウマは、日本語では「心的外傷」と訳される。大きな災害や事故によるものだと思われているがそんなことはない。6歳頃までに、人は皆トラウマを負っているという説に、私は同意する。

私たちの親の世代は、戦争やそれに伴う影響を受けた人に育てられた。戦争にまつわる経験は個々により大きな差がある。私が学生時代を過ごした長崎は被爆という洗礼を受けねばならなかったが、現在住んでいる鳥取は空襲の経験もなく、戦争の辛い記憶に「空腹」があがる。広島や長崎の人が空腹に苦しまなかったはずはないので、それを上回る苦痛の前に空腹が霞む人たちがいたということに共感したい。

トラウマ・サバイバーが皆一律に同じような成長をするわけでもないし、その苦しみや悲しみの表し方もまた多様であるとは思う。しかしかなり多い割合で、自らの苦しみを無意識のうちに我が子に投影してきた親と、そのような親に育てられた子がおり、その子がまた親になっているのだ。

トラウマは、意識されなければ連鎖していく。どこかで誰かがその家族病理を意識化して、その軛からから脱する必要がある。
以前からトラウマ的な体験が人に与える影響や、そこから回復する方法について考えてきたのだが、ヨーガの身体的な実践は非常に有効なアプローチであるようだ。