蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№562 はしご

何層もあなたの愛に包まれてアップルパイのリンゴになろう   俵万智


2月3日
2021年の節分は昨夜だったから、豆をまかねばならなかったことを思い出した。子供たちが成長してから、茶席や稽古場以外ではほとんど季節感の無い生活をしているのだが、なんだか豆はまきたい気分。いつも買い忘れてしまうから、JK剣士と買い物に行ったときに鬼のお面付きの節分豆を買って早々に保管しておいた(食器棚のような使い方をされている棚の上に置いておいただけ)。

気付いたら「まき時」は過ぎていたから食べるしかないかなあと思ったら、Yくんが「まけばいいさ!!」と言ってくれたので遅まきながらまくことに決めた。神様も許してくれるさ!今年はいつもと違って節分が1日前倒しだからね。

と・こ・ろ・が。
無いのである。
豆も鬼のお面も。おっかしいなあ、どこいったんかな、と探していたらJK剣士がやってきて行方を教えてくれた。えっ!そんなことが… まさかドロボーが入ったか、うちの猫たちのうち食いしん坊のういろ(←猫の名前)が食べたかと思っていたが違った。

ということで我が家の妙齢の美女のハラのなかに今年の豆はまかれ、たぶん我が家の平安は約束された、はず。

 

週明けから出張なので、来週末にある、働く女子としては儀礼上外すわけにはいかない(ような気がする)イベントのために買い物に出かけた。しかもその前日に秘密の場所での収録なので、「1日前だから別にいいじゃん」とは言ってはならないような気がするんだよね。特に秘密の場所のスタッフである20代男子にはやっぱり何かしてあげなくっちゃ!という親心が発動する。してあげなくっちゃ!はいいのであるが、私が準備したチョコはちゃんと気に入られるであろうか。ちょっと遊び心が過ぎちゃったかもしれない。20歳以上も年下だからつい子供の駄菓子のようなものを選んでしまった。ごめんね、O君。

 

 

さて、明日の規夫師匠とのミーティングのために資料の準備をしながら、改めて規夫師匠に心酔している私。そのはしごのかけ方に愛を感じちゃう…。これこそが発達支援だよなと思う。私こんなにバカだけどどこまでもついて行きたくなるし、そうしてついて行った先に思いもかけなかった光景が広がっているような気がする。

 

そのはしごに従って、これまで深い打撃を私に与えてくれた書籍のうち、自らのヨーガ指導に直結させられている数冊を改めて目の前に積んでみた。
それをぼんやり眺めながら、私はなにをしたいのか、何のために生きたいのか考える。

 

人はどんなにしあわせな家庭に育っても、6歳までに心に傷を負うと言われている。
みんな、だ。
私たちはみな程度の差はあれトラウマサバイバーだ。私はそう思ってヨーガの指導をしている。

アメリカ・ボストンにあるトラウマ・センターでは「トラウマ・センシティブ・ヨーガ」と銘打ったものを指導しているが、これはヨーガ療法そのもだと感じたことは以前書いた。このアプローチならヨーガ療法と同じく多くのひとを救うことができると思うし、「トラウマ」と冠してあるが故にご自身がサバイバーだという自覚がある方にメッセージが届きやすい。

日本でこの「トラウマ・センシティブ・ヨーガ」という言葉がもっと普及すればいいのにと思う。
もう一言ツッコむならば、取扱いに細心の注意を要しないクライエントなど存在しない。誰しも何かしらの苦しさを自らのうちに宿し、それがどの程度苦しいのかを人と比べたりはできない。しっかり耳を澄まし、今そのことを伝えるか否かを慎重に推し測りながら、教師と生徒の関係性が構築されていかれなければならないと思う。

「トラウマ・センシティブ・ヨーガ」では、何よりも大事な要素として「教師自身」を上げている。でも、どの教室でもそうだと思うのだ。
私はヨーガを教えたいのか、新しい存在(のように見えるあなた自身)を育てたいのか。
間違いなく後者だな、と思う。

だからやっぱり表現の形がどのようであっても、水が方円の器に添うようにその“場”に私自身を適合させながら、人に寄り添い一緒に変化を経験したいと思う。あなたはあなた自身で、あなたをなんとかする力をもっているのだということを、思い出してもらう仕事をしたいと思う。たまたまヨーガだったが、ヨーガでなくてもいいという冷徹さを持ちながら、それでもヨーガにこだわっていたい。

ヨーガという仕事を通じて、あなたが初めて見る世界を、一緒に見たいと思う。