蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№174 まる見え

本日は米子での講座だった。

まず「近況報告」という、自分自身の言語化から始まる。
講座生さんは最も短い方でも半年間の受講をしており、それなりに自分について語ることができる。
そこで様々な課題が明示されることになるが、出席メンバーによって展開が違ってくるので、講座というのは生き物だなあと毎回感動するのだ。

今日は、予め準備していたレジュメ以外に、どうしてもお話したいことがあったのだが、面白いことに、本日の個々の課題に必要な情報であったので、さっさと方向変換をしたのだった。阿吽の呼吸というか、シンクロニシティというか…。全くもって不思議である。

掻い摘んで今日の内容を語ってみると、「頭の中で思っていることは、外に漏れているよ」ということ。

自己の内面は、自己の外面に現れるでしょう?
ハッピーだったらそれに応じてホルモンも出るし、イラついていればちょっとした表情にも出る。人との接し方や言葉遣いにも変化が出るでしょうしね。

ラージャ・ヨーガ行に参加すると、自分の頭の上に「フキダシ」が出ていて、何を考えてるのか師匠には丸見えなんだろうな~と感じる。師匠は、霊眼が開かれているのかもしれないし、隠しても無駄だと諦めがつく。

でも、普通の人でもわかると思うのだ。
好意も嫌悪感も、伝わっていると思う。人間はそんなに器用ではないから(もちろん病的にうまい人もいるはず)。

Q:考えがバレバレなんて困ります。どうしたらいいですか?
A:「考えないこと」です。

人の思考の8割方はネガティブな事らしい。当然それに釣られて、口にする言葉もネガティブなことが多いようだ。言葉も音で、振動を持っているから、何かしらの影響が伝わっていくだろう。「言霊」という言葉があるので、日本人ならリアルにそのことを想像できると思う。

だから無駄事は考えないこと。
考えることがある時に、しっかり考える。
どんなことを考えるのか意識する。

ヨーガで体操をする。皆さん大人なので、言うことを聞いてくださる。
が、それは体だけのことが多い。
思考は彷徨って、落ち着きのない幼児のよう。
訓練されていない心は、猿や馬に例えられる。そこにじっとしておられないのだ。

ヨーガをする時に、体だけが形を追っていてもダメ。
心も、躾けられた賢いお猿さんのようでなければ。

「黙っていよ」と命じたら黙っている、それが躾けられた心。
心も、肉体と同じように、存在に与えられた道具。
道具は使いようによっては、自らを苦しめるものになりえる。

肉体も心も、優れた道具として用いる。
そんな勉強を、講座で行っている。
ちょっとヘンな講座だなあと我ながら思い、何と言ってPRしていいのか悩むのだが、講座生さんの変化を拝見しているとお役に立っているようだ。
遠方の方でも、ZOOMで受講できますよ。