蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№398 ふるまいの理由

「知識のみが無智を滅することが出来る。行為は無智と矛盾しないから、無智を滅することができない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ1-6

 


人間は何によって生きているのか、自分なりの仮説を持っていたほうがよい。
ヨーガには人間五蔵説や人間馬車説というものがあり、そのための方便を与えてくれる。

ほんとうの私たちは肉体ではないが、肉体が単なる物質ということでもない。
この世で生きるにあたり、私たちはどうしても肉体という器を必要とする。
とても大事なものを収めるための、特別に誂えた容れ物を雑に扱わないようにしたい。

茶の湯の世界で教えられてきたことが、この理解にとても重要な示唆を与えてくれる。
一つひとつの道具には造った人の生命が宿る。
その道具が別の誰かの元に向かうとき、その物にあわせて誂えられた箱に収められ、人の手を介しながら大切に運ばれていく。

一つひとつの道具単体でできることは少ないけれども、さまざまな道具と共に組み合わせて使われることで、茶を点てて喫するという経験が可能となる。
その行為が亭主と客という関係性のあいだに至福を生むことも、人の命と似ていると思う。

人間の存在の核は生命原理そのものであり、ヨーガではそれをアートマンと呼ぶ。
アートマンは常に至福のうちに存在するが、人がこの世に生まれ落ちて真理を学ばないうちは二つのものに覆われてしまってこの至福の力は輝くことができない

この二つのものとは我執(ahaṃkāra)心素(citta)である。
私という存在が、他者や万物と分かれて個別に存在しているという考えが我執、過去の記憶や印象が収められている袋が心素。

何かを経験するとき、私たちはそれを純粋には経験していないことが多い。
ただ、今この瞬間に確かに存在することができれば、私たちは至福のうちにいることができるのに、今経験していることが引き金を引くように、これまでの様々な記憶や、誰かの言葉や、こころの奥に積み重なってきた印象が溢れ出て、翻弄されてしまう。

心のなかにどんなものが湧き上がってきてもだいじょうぶだから、それをただ、荒れ狂う海を見るように静かに眺めていればよい。
安全に守られたところからその海を見ているということを、思い出せるように練習を続けているならいずれ上手にできるようになる。

そうすると、これまでの自分がいったいどんな行動原理につき動かされて生きてきたのかわかる瞬間がある。
わかったらそのことを責めたりせずに、ただ手放してゆけばよい。
いちどにうまくすべてを手放せなくても、手放していこうと決めればよい。
そして今のこの瞬間だけでも、過去に基づく行動原理を手放せたような気がする、という経験を積んでいくとよい。

体操や調気法を意識的におこなっていくことで、十分に経験しうる状態だと信じている。

ずいぶん上手にそれができるようになっていることを、感じさせられるできごとがあった。
ヨーガは私にとって、人としての器を大きくするための取り組みだけれど、すこしは大きくなったのだろうか。