蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№175 深い対話には体力を要する

本日は、朝3時起きで大阪まで日帰り旅行。
我が家の下の娘は6歳の頃から剣道をしているのだが、この度、中学最後の公式戦に出場したので、応援に出かけてきた。

この娘は、自分の内面を表現することがなかなかうまい。
それは言葉であったり、文章であったり、俳句や絵であったりする。

悔しい時や腹立たしい時にも、それを表現して、相手に伝えることから逃げない。
心のなかで思っていることを人に伝える行為を、「面倒くさい」と考えてコミュニケーションから逃げ続けている大人がたくさんいることを知っている私は、感心させられることが多い。

かくいう私も、面倒だという訳ではないのだが、ある種の偏見を持ってこの世を生きていることに気付かされた。これはゼミナール受講時だったか、課題図書(「インテグラル理論」)を読んでいる時だったか。
「どうせ言っても分かるまい」と対話自体を諦める、という偏見があるとの記述があったかと思うのだが、その言葉に触れて、ああ、自分はこれだ、と思った。

伝えることが面倒なわけではないのだが、理解してもらうのに言葉を尽くすのが面倒だと感じ、「どうせ言っても分かるまい」「ま、分かってもらう必要もないわな」と、接すること自体を放棄するのだ。

これは、私が普段から生徒さんとの間で、とことん理解してもらおうと向き合っていることの反動でもあると思う。
生徒さんとの間では、かみ砕いて伝え、分かって貰おうとすることを絶対に放棄しない。どんなに大変でも。子供に対しても同じく。
だが、「この人は私の生徒さんでも子供でもないんだからな」と思うと、「そこまでしなくても」と思ってしまうのだった。

理解し合うために言葉を交わすのには体力がいる。気力もいる。自分の信念も試される。

ちなみにこの度、娘は「第14回 全日本都道府県対抗 少年剣道優勝大会」という全国大会に、鳥取県代表の一人として出場したわけだが、彼女が此処に至るまでには、「剣道辞める」「死にたい」で始まる、全身全霊を使った内面の吐露や慟哭があったのだが、それを私も全身全霊で受け止めるということが数度あった。
その時、私たちは、親子ということを超えてコミュニケートし得たと思っている。
彼女はこれまで打ち込んできた剣道と自分自身を以て、私は自分の専門性と経験を以て。
数時間のあいだ、「もういい」と逃げたり打ち切ったりすることなくやり取りをすると、最後は爽快な気分と共に、「やっぱり自分の信じるところに従って、諦めずに歩むしかない」という覚悟にも似た思いが双方に湧いてくる。

対話は双方向であり、どちらかが面倒だと思えば価値ある対話は実現されない。
私が面倒だと思うのは、単に自分が面倒だからなのか、相手が感情に走ったりして対話にならないことを察してのことなのか。

誰とでも心揺さぶられる対話は出来ないと知っているからこそ、それが出来る相手を持っていることがどれほど有難いことか分かる。
いつか私が、今よりも成長した時、どんな人とでも深い対話が出来る力量を身に付けることができているだろうか。

この2か月間の経験で、娘は勝利の先にあるものの恐ろしさを知った。
彼女の言葉は、この経験を通じてどれほど豊かになっているだろうか。
次の壁にぶつかった時も、親としてだけではなく、厳しい対話をする相手として、私を選んで欲しい。その為に私も、日々を必死に、一如に生きる。