蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№173 叶わない夢は口にされない

昨晩遅くに、とある会に参加した。そこでブログやYouTubeチャンネルの話になったのだが、私のこのブログは難しすぎてよく分からないと仰る方がおられた。

むむむ…
何しろ私がこの世で一番好きなブログは、ノリオ先生のもの。
次が加藤さん。加藤さんなんて「僕のブログは難しすぎて誰も読んでない」と言い切るくらい。いや、私は時々だけど読んでます。ゼミナール受講生の中にも、読んでる人はちゃんといます。

特に食のこだわりの部分に関しては「どきーん!」と来る。
私も大変な食のこだわりの中で生きていたことがあって、毎日毎日、筋トレや体組成計測をも自らに課しており、ノリオ先生とのセッションの時におやつを食べるのを我慢していたら、「体重計に乗るの止めたら」と言われてしまったことがあった。

ノリオ先生は、枠組みごと私を揺さぶって、投げ飛ばして川にぶち込むような感じ。

「優れた教師は生徒に打撃を与えねばならない」と、教えられてきたが、それを地で行くんだな。そのため、私はこの方のことをいつも思っていながらも、なかなかメールも出来ないのだ。たぶん私のゴールデン・シャドウだから。

さて、今朝は、朝早く出かける娘を見送ってから読書していたら、またウトウトしてしまっていた。
家が揺れるのを感じる。
ゆうらり、ゆうらりと、閉じた眼の中で家全体が左右に揺れるのが感じられる。あ、地震だ、この後に大きな揺れが来なければいいが、などと思っている間にまた眠りの中に沈んでしまったようだ。

後程、隣に寝ていた娘に尋ねてみたところ、「気付かなかった」という。
午後に出かけた筋向こうの鍼灸院でも、先生が「わからなかったな」と仰る。
帰宅して調べてみたが、このあたりに今日、地震など無かったという。

いったい、私のなかのなにが、あれほど揺れたのか。

ここ数日来、音の持つ力について考えている。
日本では言霊というが、ヨーガでもマントラを大事にし、「音」を唱えることで粗雑な現象世界に変化が引き起こされると「信じて」いる。(それはエゴにとって都合のいい変化ではない。大いなる自己に根差すもの)

指導を始めて以来、ずっと生徒さん方を拝見してきて、皆様「言ったとおり」に生きているということに気付き、ゾッとしたものだ。
それも大概「悪い方」に言ったとおりになっている。
諦めモードの言霊を使うのが、私たちは皆、とてもうまいようなのだ。

望む先を、言えちゃった人と、言えなかった人の差はなんなのか。

言葉は目に見えない精妙な力だ。
肉体は目でも見える粗雑物だ。
当然、精妙な力の方がパワーが強い。
だからこそ、ヨーガをする。
目に見えない「精妙な力」の制御法を学んでいるのだから。

このことの重要性はどんなに語っても語りつくせない。
明日は講座なので、このことについて熱く語ってしまうだろう。
私はどう生きたいのか、言葉にして、手放さなくてはならない。
言いもしないで笑ってごまかしては生きられないよ。
叶わない夢は、まず口にされないのだから。