蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№429 おまかせでお願い

「一切の生類の意の変容を、差別なく見ていて、この変化しない私に、なんらかの差別があり得ようか。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-3


数日間、遠出して仕事をしてきた。
昨夕、米子駅に降り立ったら山陰は秋になっていた。

生きていると実に様々なこと経験をする。
起きる色んなことに対して、どのように自分のふるまいを決めていくか葛藤しながら生きるわけだが、起きた物事に向かい合うときの態度をヨーガでは教えている。

ヨーガを行じるものが「聖音」と呼ぶマントラがある。
マントラとは日本語で言うと「ご真言」のことで、心を守ってくれる言葉だと思っておかれるとよい。

そもそも人間の心は躾の悪い猿のようなものなので、勝手にさせておくとろくなことにならない。

この「ろくなことにならない」というのが、具体的には、脳内でDMN(デフォルトモードネットワーク)が活性して雑念だらけで疲労困憊したり、扁桃体が肥大して怒ったり怖がったりしがちだったりすることで、結果的に脳波は変わる(高β波の状態が持続する)、自律神経系は乱れる(交感神経優位になることが多い)、ホルモンは変化する(ストレスホルモンの過剰分泌)、免疫は下がる(体内の防衛活動がメインになってしまうから)ということが起きる。

そんなことが起きれば、食べ物からできている粗雑なからだは壊れちゃいますよね、ということ。なのでとにかく、如何に猿をお利巧に躾けるかということが大事になる。

そこで聖音である。AUM。

アとオの中間のような「あ」をのばして「あー」、最後に口を閉じて「む(ん)ー」と鼻に抜ける音にする。傍で聴いていると「あーうーんー」と聴こえる。
日本でいう「阿吽」。阿吽の呼吸、とか言ったりするあれ。

宇宙原初の音、神聖な音と言われる。
神社では、この音を(耳では聴こえないけれど)発しながら、狛犬が結解を作ってくれている。神社にお詣りするとき、わたしたちは聖音のなかで頭を垂れている。

というような話は全部余談で、聖音AUMにはちゃんと意味がある。これが今日の本題。

AUM「応諾」の意。
この音を唱えるとき、世界に対して私の存在そのものが宣言する。
「わかりました。あなたの意を受け容れます。」と。

この心がなかったら、生きる上で起きる自分では制御できない様々なことに対して「嫌だ―!!」と叫ぶことになるだろう。

「もっと違うバージョンでお願いします!」という願いは、ヨーガが考える病気そのもの。「今が、こんな風でなかったらいいのに」という思いこそが病気だよ、とヨーガは教えているから。

難しいことを要求しているのは重々理解している。私だってこれができるようになるまでに苦しんだし、今でも完璧にできているわけではないから。

 

かつて私は「ヨーガの神様っているんだ」と真剣に感じたことがある。
(その神を私は“絶対者ブラフマン”と呼ぶが、「者」という言葉は翻訳の綾みたいなもので、人じゃなくてエネルギー。西洋的な神の概念とは全く違う。)
たぶん、ずっとヨーガの先生をしている人はこの感覚を持っている人だと思う。

生きる上で“逆指名”システムはなく、あちらが勝手に指名してくるのだ。
「お前を使うと決めた」と。
ここで「わかりました!」と言わなかったら何もかもをとり上げられて殺される、と思ったからヨーガの先生をしている。

これは召命とかコーリングと言われる感覚のことと思うが、同じことを思いながら仕事をし、生きている人はたくさんいる。
やりたいからではなくて、なぜかわからないけれど自分がやらねばならないと感じるから、そうしている人たち。そんな人たちを、私は心の底から尊敬している。

ということで、色々起こっても「わかりました!」と言ったあとで「どうしよう!!」と悩む。すべてを受け容れろ、ということではなくて、拒否しないで考えろということ。

時々、阿吽の心は「全許容。なんでもYes」ということのように思っている人がいるけれど、それは絶対に違う。
その都度受け容れて、苦悩し、必死に生きる。逃げない。自分の小さな心で「あれがいい」と先に言わない。

という生き方をしていたら、びっくりするようなことが起こる。
世界は豊かで、愛に満ちている。
たとえどんなに、私たちがちっぽけで儚い存在だとしても。

まず、小さな自分の考えを明け渡すこと。

色々ありつつも、不思議な安心感に満たされることができる。