蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№447 身をゆだねてみる

上京中である。
昨日寝坊して、朝食代わりのMCTオイル入りコーヒーも飲まずに出発。
山陰から山陽へ向かう特急やくもと新幹線を乗り継いで、約6時間の道中だった。東京って遠いな。

昨日は非常にタイトなスケジュールだったので、前日の20時以降水とお茶しか飲んでいなかった。大移動をしたのに断食。よいこの皆さんは決してまねをしないで、断食の時は体を休めて下さい。
さすがに今朝は有酸素系のアサナが堪えた。
なので、今日は普段の習慣を曲げ、いつもは摂らない朝食を頂いた。食物鞘(肉体)は食べ物でできているのだからね…


さて昨日、非常に興味深いセッションを二つも受けた。
ヨーガ・セラピスト/教師としていつも人のケアを行っている私だが、今回は自分がケアされる側である。完全に受動。横たわって身を任せるだけ。

定期的な鍼灸治療を受けるようになって7,8年になるが、この先生は特別な時を覗いて按摩(マッサージ)の手技は行わないので、人にしっかり触れてもらうようなケアを受けることが不足していることはわかっていた。

しかし微細な領域で完全に身を委ねられるセラピストに出会うことは、とても難しい。
ただ施術してもらうだけならば、技術的に優れた方はたくさんおられる。しかし、身体を安心して任せ、感覚を言語によって共有し、疑問を理論的に満たしながら経験を消化し、自分自身の血肉としていく手助けをしてくれる方はなかなかおられないものだ。
昨日は、その点を十分に備えた女性二人の施術を受けることができた。とてもしあわせなこと。

2カ月ほど前に経験したある不調と、医師との不愉快な対話をきっかけに、40代以降の女性の真の健康、そしてしあわせとは何なのか考え続けている。ヨーガ療法を学ぶ生徒さんの多くは、50代以降の女性だからだ。思考の過程でいくつかの書籍に触れ、著者や監修者の方とコンタクトを取ろうと試みたところ、何かに導かれるように昨日の体験となった。

今の医療の概念では、閉経を機に女性は“どちらでもない性”に分類されているように感じる。男性ではないが、女性でもないような。そして、男性化してしまった女性のようになることもある。
同時に、閉経期以降の女性の心身の悩みは、若い頃(20,30代)から既に始まっているとも思う。冷えや痛み、不快感を真正面に据えて、解決に取り組んでいる人がどれくらいいるだろう。

また、出産後の母体に対するケアが、日本ではほとんど無視されている。
アーユルヴェーダでは、出産は人間が経験する中で最も大きく強い力に晒されることであると考えている。交通事故で大きな衝撃を受けるのと同じようなことが、小さな胎児によって女性の体内で生じ、母体は大きなダメージを受け、傷む。具体的には、骨盤底筋群と精神に対する影響であろうと思う。このダメージに対する適切な支援がないため、心身が回復しないまま人生を生きていくことが多いし、精神的な影響(産後うつ)などによって大きな路線変更を余儀なくされる場合もあるだろう。

自らの健康に取り組むということは、今抱えている些細な不調を真剣に捉えていくことだと思う。こういう小さな不調で病院に頼ることをすると、折り合いが合わず辛い思いをするから、未病の段階から健康へ戻すことを真剣に考えている療法に触れて欲しいと思う。
いったいどこがいいのか悩んで足を止めてしまわずに、気になったところには勇気を持って飛び込んでみるとよい。その先に新しい世界が広がっているかもしれないし、人生は自分の想像とは全く違う展開を見せるものだ。

現実は常に創造を超えているので「健やかに、しあわせに生きたい」という最も大事な望みをつねに見失わずに(暗い海の中から、灯台の灯りを目指すように)、細かいことにこだわらず前に進みたい。

《今回受けた施術は下記の先生方のものです》
たつのゆりこ先生   https://www.yuriko-tatsuno.com/ *対象は女性のみ
マインドセット・デザインズ 廣田靖子先生 https://mindset.tokyo.jp/

№446 新しいからだをつくる

「目がないから、私は見ない。同様に、耳のない私が、どのように聞くことがあろうか。言語器官をもたないから、私は語らない。意(思考器官)をもたないから、どうして思考することがあろうか。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ13-1



ここひと月ほど身体の調子が非常によく、かなりアグレッシブに自分自身の運動(アサナ)を楽しんでいる。通常のパターンだと、絶好調でやり過ぎてどこかを傷めてしばらく動きが制限される、ということの繰り返しだったのだが、最近ようやく知恵がついてきたようだ。

ここでの傷める、というのは過伸展を意味している。
私はもともとからだがしなやかに動く方なので、ついうっかり力を入れ過ぎてしまい、部分的に痛みを生み出してしまうことが多かった。
ストレッチは身体にいいと思っているひとが多いけれど、筋肉というのはざっくりいうと、複数のメンバーが協調し合って運用されているチーム活動のようなものであって、どちらか片方だけを働かせてしまうと不満も出るし、調和が壊れてしまうのだ。

なので、身体を調和させるには等尺的な動きがベストである。
アイソメトリックとも呼ばれる、引き合い、押し合うような動きである。
ヨーガ療法では、この等尺的な動きに、動きのあとの休止を含めることで、自律神経を調整する効果を生み出している。

等尺的な動きと休息を交互に行っていくと、身体がだんだん柔らかくなり、可動域が広がっていくのが確認できる。実習者が自分でリアルに自覚できるほど、はっきりとした変化が生じる。

これは動きによって筋肉が柔らかくなったということではなく、動きと休息の繰り返しに脳が反応し、緊張と弛緩のバランスを取らねばならいことを思い出し、そのようにしてくれるというほうが正しい。
からだが硬いのでヨーガを敬遠する人が多く、これは私の仕事にとって大いに悲しむべきことなのだが、あなたの筋肉がそもそも硬くて動きが悪くなっているわけではないのである。そういうオーダーが出つづけているだけ。ここのところをよく理解して欲しい。

これまでの人生の中で、あなたは最適だと思う体の使い方をしてきた。
それはあなたの職業にもよるだろうし、性格や好みにもよるだろう。男性ならば逞しい体が魅力的だと考えられているので、何らかの方法で筋肉を大きくしようと頑張ったことがあるかもしれないし、女性ならば痩せて胸が大きいことが善のようにメディアが語るから、それに自分を適合させようと苦悩したかもしれない(減量と豊胸はベクトルが真逆のような気がするが)。

その過程であなたは何かを学習してきた。そして肉体を調教してきた。
ある段階にやってきて、これまでの身体の理想と、これからの理想が異なることに気付いた時、一度リセットする必要がある。
ヨーガはそれをやっている。だから呼吸を伴いゆっくりとした、意識的な動作を要求する。運動という道具を使って、新しいことを学んで、新しいからだを作ろうとしている。

ヨーガは調教の対極にあり、身体の声を聴きながら、そこに心がどれくらい影響を与え、存在の奥底で魂が何を欲しているのかに耳を傾ける。

私にとってアサナは祈りである。
太陽礼拝や月礼拝というシークエンスをご存知の方は多いと思うが、それを肉体的にではなく行じているひとがいったいどれくらいいるだろうか?
人としてここに生きることを許された存在として、目に見えぬけれど遍在するものと、目に見える私というものを調和させていく。からだは気持ちよさを求めたり、心は大事な人を思って泣いたりするが、その根底に、確かな揺るぎない何かが常に湛えられるようにして在って、その支えの上で泣いたり笑ったりしていることを思い出していく。
多くの人が、身体を通じたこの至福を理解できればいいのと思う。

今日は早朝から出張なのに大寝坊をしてしまい、いつものルーティンをこなせなかった。こういう時は仕様がないから、目を閉じて頭のなかで一連の動きを再現する。人間は賢くて、想像しただけで筋肉に反応が出るというから、多少の慰めにはなるだろう。

№445 それきくのやめて

前職のことを知った人に、ほぼ必ずされる質問ベスト3がある。

1.飛行機乗ってたの?
2.実弾撃ったことある?
3.女性だから事務仕事だけだよね?

この質問を私にしようと思っていた方、もうやめて下さいね。ここで説明しますから。

まず1番。
航空自衛隊という組織は主に空で任務遂行するので(自衛隊法第3条)、具体的には航空機の運用が仕事。それに伴う多くの後方支援も含まれる。

その組織全体のわずか数%(何パーセントか具体的には知らないが、知っていても書けない)のみが、航空機を操縦できる人。それぐらい重みがあり、訓練は厳しく、頑張りだけでは何ともならない天性の世界で、だからこそウィングマーク(航空徽章)には価値がある。

こんなところでこんなふうにちゃらんぽらんしている人が、パイロットだったわけはないのである。
日本の皆さんは、高い技能を持つ軍用機のパイロットをもっとリスペクトしてあげて下さい。

ああ、でも「飛行機乗ってた?」を広く捉えると、乗ってました。たくさん乗りました。
当時の所属部隊では、次期支援戦闘機FS-X(現在のF-2)運用前の試験を行っていた。JTOと言われる技術指令書を作成する作業を、同じ基地にある開発集団がやっていて、そこで飛ばす飛行機の部品等支援(補給という)のため、色んなところに出張に行く羽目になった。ジャンケンで負けた人が泣く泣く行く、というくらい頻繁に出張があった。
部品のために輸送機が飛ぶ場合もあり、それに乗って色んな所へ飛んだ。
青森まで、空を飛ぶ爆発する物体(ミ〇イル)を借りに行ったとき、国産輸送機C-1のなかでそれとひざを突き合わせているのは複雑な気分だったな。

2番、そして3番について。
自衛官は「服務の宣誓」というものに署名して、正式に自衛官になる。
その文言の全文はこちらでどうぞ →

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E5%8B%99%E3%81%AE%E5%AE%A3%E8%AA%93#%E9%9A%8A%E5%93%A1

「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」ことを誓えなかったら、翌朝ひっそりと基地から去っていき、準備されていたネームプレート等は静かに剥がされ、初めからそんな人はいなかったかのように物事は進んでいく。

18歳の4月、着隊日の夜にこの文言が印刷された用紙を前に怖ろしい気持ちになったことを今も覚えている。教官らから特に説明などない。自分が教官をした時もそうだった。「よく読んで、考えてから署名しなさい。強要はしない。」と、ただそれだけである。

受け止め方は人それぞれであると思う。何とも思わずサラッと署名できる人もいると思う。でも自分は違った。
安定した公務員のような気持ちで(あたかも市役所や郵便局の職員と同じように?)この職業を捉えているひとってどうなの、と親の態度も含めて強い疑念を感じた。自衛官になることに強く反対し、「人生を諦めるな!!」と真剣に怒ってくれた高校担任の猿渡先生の顔を思い出したりした。

こんな思いをかつてもってこの紙に名前を書いて、自分はここにいる。だから、この紙に同じように複雑な思いで署名をする学生や後輩を守ってやりたいし、せめてわたしたちの在職中にこの国が平和であってくれと、当時思っていた。

自衛官が実弾撃つか撃たないか、女性自衛官が事務しかしないか、という質問がそもそも出てしまう認識を改めてもらえるといいなと思って、この文章を書いている。

自衛官の仕事は二層構造になっていて、土台が「基礎訓練」(射撃とか匍匐前進とか教練とか、みんなが想像する自衛官の仕事そのもの)、上にそれぞれの専門職種が乗っている。輸送、整備、管制、武器弾薬、補給など具体的な仕事を普段はやっている。だからいつもは事務作業をやっている人も、音楽隊で楽器を吹くのが仕事の人も、毎年ちゃんと所定の訓練を行っている。

実弾も撃ったし、髪を短くして泥水の中を這いまわった。真夜中に銃を持って歩哨に立った。弾は装填していなくても、人に銃口を向けて誰何する(=「だれか?!」と聞く行為。三回聞いて返事しなかったら敵とみなし攻撃対象となる)訓練もした。いつ来るかわからない”とき”のために、必死に長距離を走って体力錬成した。

だから私は今でもキャンプは嫌い。モデルガンなども大嫌い。長い距離を走ることも嫌い。

実弾射撃は、下手すると鎖骨を折るほどの衝撃がある。
人を殺傷することのできる重み。
破傷風の予防接種を打ちながら、泥水に下着まで浸しているうら若き女性隊員たちが今もいる。これは、ゲームではない。

一緒にしないでよ、サバイバルゲームとかと。マニアの目で、羨ましそうに見ないで。

民間にある私たちは、せめて、この国の政治を注視し続ける義務がある。
彼らのやっていることが、最後までただの訓練であり続けられるように。

無責任になってはいけない。

 

№444 食べないで寝るクスリ

今日は養生の一日である。

人間楽しいことや嬉しいことでも、心身に疲労が蓄積する。
気持ちが高揚するような行事のあと、なんだか気が抜けたようになって疲れを感じることは経験したことがあるだろう。

今週は私もそんな高揚と共にあったので、少しバランスを崩した。
人によって、その調和の崩れ方は異なる。

食行動に異常が出るわたしは、食欲が増すことが不調の始まりになる。
当然その前に、心身の調和が乱れる事象が起きているということ。
しかしこの乱れは悪いことではないと、今は考えるようになった。

養生を心掛けて生きるようになると(ヨーガをやるようになると、と言ってもいい)、多少の変化で大きくバランスを崩すことがある。
ヨーガをやっているのに、健康になったのか、それとも敏感になり過ぎて不健康になったのかわからないという冗談があるくらいだ。

でもこの現象は、「なにがあってもびくともしない」という状態に身体が移行する期間のみのことらしい。ただこの期間は、数年~10年の単位と、割合ながく続くように思う。
じきに、乱れても戻せる方法を体得し、大きく体調を崩さないで変化を楽しむ方法を学んでいく。

この学びが起こらないこともある。
それは自らを守るために「自分流」を貫きすぎて、禁止事項を多く採用しすぎてしまった場合だ。こうなると遊びの部分が少なくなって、振れ幅が小さくなってしまうだろう。そして多分前よりも不健康になる。

ヨーガに取り組む者はいったんは菜食主義者になろうとしたりして、食を制限する方向に向かうが、基本的にはその路線を歩みつつ対外的な場面では一切の自己主張をしない(好みを主張することくらいはするだろうが)ところに落ち着くように見受けられる。
要するに、「ベジタリアンですか?」と訊ねられても「いいえ、なんでも食べますよ」と答えるが、家の中では野菜を食べている、という感じだ。

これも個人的なことなので、調和を保ち、振れ幅を小さくしないように自らやりたいようにやればいいだけのことである。
ちなみに完全ベジ(ヴィーガン)の先輩もちゃんといる。師匠はラクベジタリアン(乳製品は摂取する菜食者)である。

食欲が増すことが不調の始まりという話に戻ろう。
人の不調は消化器から始まると、アーユルヴェーダでは考えている。
漢方的な世界観では、何らかの理由によって「脾(=膵臓やそれに伴う働きのこと)」が弱ると、消化不良になっていくと考えている。

消化不良になるとどうなるか?
きちんと吸収や代謝ができなくなる。そのため体には必要な栄養が行き届かなかったり、不要なものがきちんと排出されなかったりする。
そんなことが続くと、身体は「非常事態だ!」と思うのだろう。
なんとかせねばならないから、エネルギーを蓄えて対処しようとする。

不調時の「何かほしいな」と、調和時の「お腹減ったな」はまるで違うということ。
知ってました?

だからこの場合の不調には、「食べない」ことが正しい。
ひたすら寝るとか、身体を温めるとか、温水を飲んで内臓を助ける、ということをするのがよい。

今日はそんな日だった。
波のように眠りが繰り返しやってきて、夢が様々に立ち現れては消えていった。

すっきりと目覚められず、ふとんから離れたくない時、あなたは疲れている。
人間は元気だと、そもそも寝てなんていられない生きものだから。
とことん寝ることが薬だとわかれば、この世の医療は少しシンプルになるかもしれない。

 

 

№443 出会いに揺さぶられる

「『私はブラフマンを知っている』という誤った観念を捨てて、アートマンの見は不断であり、行為主体とはならない、と知っているもの、その人だけが真実にアートマンを知っており、他のものはそうではない。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-13



人は別れ、そして出会う。

6歳で生まれた土地を離れてから、いくつかの場所を転々としてきた。
土地土地によって、景色も空気も、味も、もちろん人の気質も違う。
山はどこにでもあるけれども、目に見える山並みも異なる。私は若く感受性の高い時期を九州で過ごしたので、あの山並みは見ただけでわかると思っている。

生まれて初めての勤務先が、その任務特性的に機動性の高いところだったので、1日で日本の北から南まで移動したこともある。例えば、九州に行こうとしているのに、北海道、青森、埼玉経由であるとか。
そういうことを経験すると、ある1日が、この国の中でどんなにその在り様が異なるかがわかる。私の当たり前は、どこかでは非常識となる。

そういう感覚を理解して、今いるここの、今のこの年齢や経験の自分の基準や考えに対して、常に柔軟性を持って生きていければいい。
今の自分の考えに「それウソかもしれないし」とツッコミを入れてやれるような、客観性をもっていたい。

自分の足場や基準値が大きく揺さぶられるのは環境要因も大きいけれども、人と出会い、触れ合うことがもっともはげしい変動を与えてくれる。

慣れ親しんだ誰かとの別れは、その記憶が穏やかに残り続けることでいつまでも自分自身に滋養を与えてくれるようなものもあるし、逆に、思い出のすべてが塵になってしまうような別れもあるだろう。哀しみのあとで、記憶が浄化されるような別れもある。

転々としながら生きてきたこともあって、また自分自身の生き方から、私は多くの別れを経験してきた。
距離が人を隔てるとは思っていない。
意思さえあれば、時間や距離は軽々と飛び越えることができる。でも人は山ではないのに、まるで山のように動かない人もいる。その場合は、関係性を構築しているどちらかがそれをひょいと乗り越える軽やかさを持たねばならない。

乗り越えるためには、乗り越えたいと思う心が必要で、ということはやはり人を隔てるのは距離ではなく心である。同時に、心があっても時やタイミングをどうしても乗り越えられない場合がある。
そういうときに、この世は人の力では何ともしようがないものによって動かされているのだなと改めて感じる。

 

基本的に、人と人の関係性に対してペシミスティックな見方が私の根本にある。
これまでの生き方だけでなく、親の世界観も私に影響を与えている。

人は簡単にわかれてしまうことがある。
誰にでもいつか必ず死がやってきて、どんなに愛しいひととも別れる日がやってくるだろうに、それでも人は生きてわかれる。生きていることに対する傲慢さのように。

ほんとうは、私たちは一瞬たりともわかれていない。
そもそも、わかれることのできる私というものが存在しない。
それは理解しているはずなのに、誰かとの別れを寂しいと思い、その心の動きから言葉や音楽が生まれる。

だから新しい出会いに憶病にならず、その出会いから関係性が深まっていくことや、その出会いによって自分自身が大きく根底から揺さぶられて何かが壊れるような怖れを抱いたとしても、壊れる自分なんてないという正気を取り戻して、揺れる自己存在を見つめていられる視点を養っていきたい。


逆らえぬ感情には従うがいい
それがつかの間のものであろうとも
手をとらずにいられぬときには手をとり
目の前の人の目の中に覗くがいい ……

 (谷川俊太郎詩集・手紙「水脈」より )

№442 とことん遊ぼう

「粗大な身体と微細な身体と同一視され、潜在印象の形をもったアートマンによって、行為がなされる。私の本性は、『そうではない、そうではない』(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド2・3・6)のであるから、わたしによってなされるべき行為は何処にも存在しない。」    ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-14



茶道には馴染みのないお客様に、茶を供させて頂く機会を頂いた。
遠方から到来される方なので、心づくししておもてなししたい。
さて、どのような趣向でさし上げたものか。

お盆を用いた簡略版の「略点前」というものがある。
お湯と、最低限の道具があれば茶が飲める。実にシンプル。
茶室ではない場所でお茶をさし上げるので、この度はこの点前を行う。

茶を飲むというそれだけのことを、ここまでのセレモニーにした尖った遊びなんだから、ただ茶を点て出し(=点前の披露がなく、点てたお茶だけお出しすること)で飲んでもらうだけではつまらないような気がする。
この世に生きることを神の遊戯(リーラ)ともいうではないか。
それではとことん遊んでやろう!と思い、数日前から準備にかかっている。

とにかく茶碗である。これがなければ始まらない。
ご縁あって私の元にやってきた、富山・須山窯、昇華先生の「波」の茶碗を用いることにした。
特別にめがね箱(二つ入る箱のこと)を調えて頂いた、白と青の対の茶碗。
箱にまでサプライズで昇華先生が波の絵を描いて下さった、私のお宝である。

陶芸の世界ではまだ若手のこの先生に、私は惚れ込んでいる。
師匠も、社中の仲間も惚れ込んでいる。
数年に一度の展示会には皆でなんども足を運び、先生と直々にお話をさせて頂く。
絵付けにプラチナ等を贅沢にご使用になるのは先生の美学で、「これでは先生の儲けが出ない」と高島屋の美術の方が嘆いておられた。

まだご存命の先生の作品は、比較的価格が低い。
が、茶道具はお金があるから買うものではない。惚れて、なんとかして手に入れる。
もちろん惚れぬいても買えないものもたくさんある。そっちの方が多い。とても切ない。
でも、惚れるのも勉強だから、絶対に今の自分には買えないものも見に行く。
現代では売買されない宝のような道具も、美術館に見に行く。
連れて帰れないので代わりに図録を買って眺める。「ああ、やっぱり写真では良さがわからんなあ」と言いながら。

昇華先生の展示会を日本橋かどこかでされていた時、富裕そうな男性が来て「ここからここまで全部買うから、値段を出せ」と言ったそうだ。
先生を見出し育てられた外商の方は、「お帰り下さい。ここにはあなた様にお売りできるものはございません」と丁重に申し上げ、お引き取り願ったと聞く。
買えばいいわけではないのである。
物と言えど、惚れなければ。相思相愛なら至福だ。

師匠とご一緒にこういった展示会に伺うと、「どうぞお手にお取りになって」とお声掛け頂くことがある。普通はNG、絶対に触ったらダメ。でも、師匠がお側にいて下さるとお許しが出る(なので、師匠とご一緒させて頂くのが一番勉強になる!)。言わば師匠が保証人になってくださるわけである。
ここで師匠がお止めになる場合もあるだろう。その場合は、改めて日々の稽古に精進し、道具の扱いに関する師匠からの信頼を高めていくしかない。

茶道具は「道具」であるから、点前をするものの手になじむ大きさというものがあるし、好きな重みやテクスチャーというものもある。私は重めの茶碗を好むし、濃い大服(量が多め)で茶を飲みたいので小さめの茶碗は好まない。
見ていると惚れ惚れするのに、実際に触れるとガッカリすることもある。
素敵だと思ったのでデートしてみたけど、ちょっとね…という感じだろうか。

まあまあ、そんなこんなで準備に余念がないのである。
こうやって実際に茶をさし上げる前から盛り上がっているから、本番も楽しいに決まっている。どうせやるならとことん、今の自分にできる範囲で、魂が冴えるまでやってみようではないか。

「茶会は亭主が一番楽しい」「面倒なことを、面倒と思わず楽しめるようになることが成長」という茶人の気持ちの一端に触れる機会を与えて下さったこのお客様に、心からの感謝を。

 

 

№441 泣くことしかできなくても

ホロコースト関連の書籍で、気になるものは手に取るようにしている。

ここ数年読んだもので特に印象に残っているものを新しい順に挙げると、
ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」「ニュルンベルク合流」、
そしてようやく映画化された「HHhH」だろうか。

そして今回、サンティアゴ・H・アミゴレナの「内なるゲットー」を手に取った。
さらっと読み進めることができる小説だ。表面的には。

 

1940年9月、ブエノスアイレスに暮す38歳のユダヤ人、ビセンテ。彼が主人公。

儚いくらい繊細な顔立ち、唇、眉、ほっそりした鼻、口髭は東洋の書道家の巧みな筆で描かれたように精妙。
義父が結婚前に、《正直者にしてはやけにめかしこんでいる》と胡散臭く感じるほど華のある青年だ。

ビセンテは1928年に親友と共にポーランドを離れたが、彼の地にはまだ母と兄夫婦がいる。
母から何度も手紙を懇望されながら、面倒がってなかなか出さない。母からは月に数度の便りがある。
ヨーロッパ情勢の変化を見て周囲の友人たちは家族を呼び寄せるが、ビセンテは積極的には動かない。でも、万が一母たちに何事かあれば、助けるのはこの自分だと思っていた。

次第に母からの便りが遠のくことにビセンテは何事かを感じ取るのだが、ブエノスアイレスでなくても、その当時のナチスの勢力下でどんな事態が進行しているのか、誰も知ることはできなかったし、その真実の一端に触れるための情報には真剣に向き合わなかった。
「こんなことが本当のはずがない。とんだ捏造だ。」と。

主人公は家族、とりわけ母を案じ、自分の内に籠っていく。
真実を知ることから逃げるように、妻や子供にも心を閉ざしていくが、1943年5月母から最後となる手紙が届く。


私たちは今この時代にあって、あの頃起こったことを俯瞰して理解した気になることができる。
過去や歴史に学ぼうと思っていたりする。

あそこで起こったことを今私たちが知ることができるのは、あの環境の中から生還した人たちがいるからであり、体制側にいながら真実を知らしめようと苦悩した人がいるから。

そしてもっと多くの、大切な人を失った人たちのなかの勇気ある人たちが、その痛みを乗り越えて、なぜどのようにして愛する人たちが死ななければならなかったのかを後世に伝えようとしてくれたからだ。

ビセンテは語らないことを選んだ。
誰にも。

母を案じ続けた四年の内に、若きダンディーの面影はひとかけらもなくなり、年寄りじみた親父になった。誰も、なぜ彼がたった四年であんなに老け込んだのかと首をひねった。


この本は、ビセンテの孫が書いた小説だ。
曾祖母が当時ポーランドから出した便りは、今も現存しているという。
ビセンテは語らなかったが、血脈を通じて彼の嘆きは小説となり、私の心を打つ。

今春、コロナ禍のなかで、著者アミゴレナは次のような問いを投げかけた。
「現在われわれが躍起になって救おうとしている命は、ふだんから飢餓や気候変動、戦争で失われている命よりたいせつなのだろうか? 」

著者は「物事は循環すると考え」たいと述べ、今も非人道的なことは起きていて、それは語られないことを指摘している。


ここで私は、非人道的な行いには、もっとうんと小さなことも含まれていると言いたい。

誰かが、誰かのために、もう少しだけ何かをしてあげたら、その人は生きるのが楽になるかもしれないのに。
制度とか法律とかを盾にとって、自らの努力を放棄してはいないか。
そんな仕事の先に、泣き、苦しみ、生きる意欲を失ったり、もしかしたら自ら死を選ぶ人もいるかもしれないのに。
それが直接目に触れなければそのことを想像することも、共感することもない。

アイヒマンの仕事のすべては机上で為されたことを、私もかつて国家公務員として事務に当たっていたことがあるからこそ、戦慄と共に想像する。

自分が知ることのできた事実にただ泣くことしかできないとしても、「なんとかならないのか」という慟哭の思いと共に、生きることができればと願う。

 

内なるゲットー

内なるゲットー