蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№446 新しいからだをつくる

「目がないから、私は見ない。同様に、耳のない私が、どのように聞くことがあろうか。言語器官をもたないから、私は語らない。意(思考器官)をもたないから、どうして思考することがあろうか。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ13-1



ここひと月ほど身体の調子が非常によく、かなりアグレッシブに自分自身の運動(アサナ)を楽しんでいる。通常のパターンだと、絶好調でやり過ぎてどこかを傷めてしばらく動きが制限される、ということの繰り返しだったのだが、最近ようやく知恵がついてきたようだ。

ここでの傷める、というのは過伸展を意味している。
私はもともとからだがしなやかに動く方なので、ついうっかり力を入れ過ぎてしまい、部分的に痛みを生み出してしまうことが多かった。
ストレッチは身体にいいと思っているひとが多いけれど、筋肉というのはざっくりいうと、複数のメンバーが協調し合って運用されているチーム活動のようなものであって、どちらか片方だけを働かせてしまうと不満も出るし、調和が壊れてしまうのだ。

なので、身体を調和させるには等尺的な動きがベストである。
アイソメトリックとも呼ばれる、引き合い、押し合うような動きである。
ヨーガ療法では、この等尺的な動きに、動きのあとの休止を含めることで、自律神経を調整する効果を生み出している。

等尺的な動きと休息を交互に行っていくと、身体がだんだん柔らかくなり、可動域が広がっていくのが確認できる。実習者が自分でリアルに自覚できるほど、はっきりとした変化が生じる。

これは動きによって筋肉が柔らかくなったということではなく、動きと休息の繰り返しに脳が反応し、緊張と弛緩のバランスを取らねばならいことを思い出し、そのようにしてくれるというほうが正しい。
からだが硬いのでヨーガを敬遠する人が多く、これは私の仕事にとって大いに悲しむべきことなのだが、あなたの筋肉がそもそも硬くて動きが悪くなっているわけではないのである。そういうオーダーが出つづけているだけ。ここのところをよく理解して欲しい。

これまでの人生の中で、あなたは最適だと思う体の使い方をしてきた。
それはあなたの職業にもよるだろうし、性格や好みにもよるだろう。男性ならば逞しい体が魅力的だと考えられているので、何らかの方法で筋肉を大きくしようと頑張ったことがあるかもしれないし、女性ならば痩せて胸が大きいことが善のようにメディアが語るから、それに自分を適合させようと苦悩したかもしれない(減量と豊胸はベクトルが真逆のような気がするが)。

その過程であなたは何かを学習してきた。そして肉体を調教してきた。
ある段階にやってきて、これまでの身体の理想と、これからの理想が異なることに気付いた時、一度リセットする必要がある。
ヨーガはそれをやっている。だから呼吸を伴いゆっくりとした、意識的な動作を要求する。運動という道具を使って、新しいことを学んで、新しいからだを作ろうとしている。

ヨーガは調教の対極にあり、身体の声を聴きながら、そこに心がどれくらい影響を与え、存在の奥底で魂が何を欲しているのかに耳を傾ける。

私にとってアサナは祈りである。
太陽礼拝や月礼拝というシークエンスをご存知の方は多いと思うが、それを肉体的にではなく行じているひとがいったいどれくらいいるだろうか?
人としてここに生きることを許された存在として、目に見えぬけれど遍在するものと、目に見える私というものを調和させていく。からだは気持ちよさを求めたり、心は大事な人を思って泣いたりするが、その根底に、確かな揺るぎない何かが常に湛えられるようにして在って、その支えの上で泣いたり笑ったりしていることを思い出していく。
多くの人が、身体を通じたこの至福を理解できればいいのと思う。

今日は早朝から出張なのに大寝坊をしてしまい、いつものルーティンをこなせなかった。こういう時は仕様がないから、目を閉じて頭のなかで一連の動きを再現する。人間は賢くて、想像しただけで筋肉に反応が出るというから、多少の慰めにはなるだろう。