蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№442 とことん遊ぼう

「粗大な身体と微細な身体と同一視され、潜在印象の形をもったアートマンによって、行為がなされる。私の本性は、『そうではない、そうではない』(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド2・3・6)のであるから、わたしによってなされるべき行為は何処にも存在しない。」    ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-14



茶道には馴染みのないお客様に、茶を供させて頂く機会を頂いた。
遠方から到来される方なので、心づくししておもてなししたい。
さて、どのような趣向でさし上げたものか。

お盆を用いた簡略版の「略点前」というものがある。
お湯と、最低限の道具があれば茶が飲める。実にシンプル。
茶室ではない場所でお茶をさし上げるので、この度はこの点前を行う。

茶を飲むというそれだけのことを、ここまでのセレモニーにした尖った遊びなんだから、ただ茶を点て出し(=点前の披露がなく、点てたお茶だけお出しすること)で飲んでもらうだけではつまらないような気がする。
この世に生きることを神の遊戯(リーラ)ともいうではないか。
それではとことん遊んでやろう!と思い、数日前から準備にかかっている。

とにかく茶碗である。これがなければ始まらない。
ご縁あって私の元にやってきた、富山・須山窯、昇華先生の「波」の茶碗を用いることにした。
特別にめがね箱(二つ入る箱のこと)を調えて頂いた、白と青の対の茶碗。
箱にまでサプライズで昇華先生が波の絵を描いて下さった、私のお宝である。

陶芸の世界ではまだ若手のこの先生に、私は惚れ込んでいる。
師匠も、社中の仲間も惚れ込んでいる。
数年に一度の展示会には皆でなんども足を運び、先生と直々にお話をさせて頂く。
絵付けにプラチナ等を贅沢にご使用になるのは先生の美学で、「これでは先生の儲けが出ない」と高島屋の美術の方が嘆いておられた。

まだご存命の先生の作品は、比較的価格が低い。
が、茶道具はお金があるから買うものではない。惚れて、なんとかして手に入れる。
もちろん惚れぬいても買えないものもたくさんある。そっちの方が多い。とても切ない。
でも、惚れるのも勉強だから、絶対に今の自分には買えないものも見に行く。
現代では売買されない宝のような道具も、美術館に見に行く。
連れて帰れないので代わりに図録を買って眺める。「ああ、やっぱり写真では良さがわからんなあ」と言いながら。

昇華先生の展示会を日本橋かどこかでされていた時、富裕そうな男性が来て「ここからここまで全部買うから、値段を出せ」と言ったそうだ。
先生を見出し育てられた外商の方は、「お帰り下さい。ここにはあなた様にお売りできるものはございません」と丁重に申し上げ、お引き取り願ったと聞く。
買えばいいわけではないのである。
物と言えど、惚れなければ。相思相愛なら至福だ。

師匠とご一緒にこういった展示会に伺うと、「どうぞお手にお取りになって」とお声掛け頂くことがある。普通はNG、絶対に触ったらダメ。でも、師匠がお側にいて下さるとお許しが出る(なので、師匠とご一緒させて頂くのが一番勉強になる!)。言わば師匠が保証人になってくださるわけである。
ここで師匠がお止めになる場合もあるだろう。その場合は、改めて日々の稽古に精進し、道具の扱いに関する師匠からの信頼を高めていくしかない。

茶道具は「道具」であるから、点前をするものの手になじむ大きさというものがあるし、好きな重みやテクスチャーというものもある。私は重めの茶碗を好むし、濃い大服(量が多め)で茶を飲みたいので小さめの茶碗は好まない。
見ていると惚れ惚れするのに、実際に触れるとガッカリすることもある。
素敵だと思ったのでデートしてみたけど、ちょっとね…という感じだろうか。

まあまあ、そんなこんなで準備に余念がないのである。
こうやって実際に茶をさし上げる前から盛り上がっているから、本番も楽しいに決まっている。どうせやるならとことん、今の自分にできる範囲で、魂が冴えるまでやってみようではないか。

「茶会は亭主が一番楽しい」「面倒なことを、面倒と思わず楽しめるようになることが成長」という茶人の気持ちの一端に触れる機会を与えて下さったこのお客様に、心からの感謝を。