蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№444 食べないで寝るクスリ

今日は養生の一日である。

人間楽しいことや嬉しいことでも、心身に疲労が蓄積する。
気持ちが高揚するような行事のあと、なんだか気が抜けたようになって疲れを感じることは経験したことがあるだろう。

今週は私もそんな高揚と共にあったので、少しバランスを崩した。
人によって、その調和の崩れ方は異なる。

食行動に異常が出るわたしは、食欲が増すことが不調の始まりになる。
当然その前に、心身の調和が乱れる事象が起きているということ。
しかしこの乱れは悪いことではないと、今は考えるようになった。

養生を心掛けて生きるようになると(ヨーガをやるようになると、と言ってもいい)、多少の変化で大きくバランスを崩すことがある。
ヨーガをやっているのに、健康になったのか、それとも敏感になり過ぎて不健康になったのかわからないという冗談があるくらいだ。

でもこの現象は、「なにがあってもびくともしない」という状態に身体が移行する期間のみのことらしい。ただこの期間は、数年~10年の単位と、割合ながく続くように思う。
じきに、乱れても戻せる方法を体得し、大きく体調を崩さないで変化を楽しむ方法を学んでいく。

この学びが起こらないこともある。
それは自らを守るために「自分流」を貫きすぎて、禁止事項を多く採用しすぎてしまった場合だ。こうなると遊びの部分が少なくなって、振れ幅が小さくなってしまうだろう。そして多分前よりも不健康になる。

ヨーガに取り組む者はいったんは菜食主義者になろうとしたりして、食を制限する方向に向かうが、基本的にはその路線を歩みつつ対外的な場面では一切の自己主張をしない(好みを主張することくらいはするだろうが)ところに落ち着くように見受けられる。
要するに、「ベジタリアンですか?」と訊ねられても「いいえ、なんでも食べますよ」と答えるが、家の中では野菜を食べている、という感じだ。

これも個人的なことなので、調和を保ち、振れ幅を小さくしないように自らやりたいようにやればいいだけのことである。
ちなみに完全ベジ(ヴィーガン)の先輩もちゃんといる。師匠はラクベジタリアン(乳製品は摂取する菜食者)である。

食欲が増すことが不調の始まりという話に戻ろう。
人の不調は消化器から始まると、アーユルヴェーダでは考えている。
漢方的な世界観では、何らかの理由によって「脾(=膵臓やそれに伴う働きのこと)」が弱ると、消化不良になっていくと考えている。

消化不良になるとどうなるか?
きちんと吸収や代謝ができなくなる。そのため体には必要な栄養が行き届かなかったり、不要なものがきちんと排出されなかったりする。
そんなことが続くと、身体は「非常事態だ!」と思うのだろう。
なんとかせねばならないから、エネルギーを蓄えて対処しようとする。

不調時の「何かほしいな」と、調和時の「お腹減ったな」はまるで違うということ。
知ってました?

だからこの場合の不調には、「食べない」ことが正しい。
ひたすら寝るとか、身体を温めるとか、温水を飲んで内臓を助ける、ということをするのがよい。

今日はそんな日だった。
波のように眠りが繰り返しやってきて、夢が様々に立ち現れては消えていった。

すっきりと目覚められず、ふとんから離れたくない時、あなたは疲れている。
人間は元気だと、そもそも寝てなんていられない生きものだから。
とことん寝ることが薬だとわかれば、この世の医療は少しシンプルになるかもしれない。