蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№444 食べないで寝るクスリ

今日は養生の一日である。

人間楽しいことや嬉しいことでも、心身に疲労が蓄積する。
気持ちが高揚するような行事のあと、なんだか気が抜けたようになって疲れを感じることは経験したことがあるだろう。

今週は私もそんな高揚と共にあったので、少しバランスを崩した。
人によって、その調和の崩れ方は異なる。

食行動に異常が出るわたしは、食欲が増すことが不調の始まりになる。
当然その前に、心身の調和が乱れる事象が起きているということ。
しかしこの乱れは悪いことではないと、今は考えるようになった。

養生を心掛けて生きるようになると(ヨーガをやるようになると、と言ってもいい)、多少の変化で大きくバランスを崩すことがある。
ヨーガをやっているのに、健康になったのか、それとも敏感になり過ぎて不健康になったのかわからないという冗談があるくらいだ。

でもこの現象は、「なにがあってもびくともしない」という状態に身体が移行する期間のみのことらしい。ただこの期間は、数年~10年の単位と、割合ながく続くように思う。
じきに、乱れても戻せる方法を体得し、大きく体調を崩さないで変化を楽しむ方法を学んでいく。

この学びが起こらないこともある。
それは自らを守るために「自分流」を貫きすぎて、禁止事項を多く採用しすぎてしまった場合だ。こうなると遊びの部分が少なくなって、振れ幅が小さくなってしまうだろう。そして多分前よりも不健康になる。

ヨーガに取り組む者はいったんは菜食主義者になろうとしたりして、食を制限する方向に向かうが、基本的にはその路線を歩みつつ対外的な場面では一切の自己主張をしない(好みを主張することくらいはするだろうが)ところに落ち着くように見受けられる。
要するに、「ベジタリアンですか?」と訊ねられても「いいえ、なんでも食べますよ」と答えるが、家の中では野菜を食べている、という感じだ。

これも個人的なことなので、調和を保ち、振れ幅を小さくしないように自らやりたいようにやればいいだけのことである。
ちなみに完全ベジ(ヴィーガン)の先輩もちゃんといる。師匠はラクベジタリアン(乳製品は摂取する菜食者)である。

食欲が増すことが不調の始まりという話に戻ろう。
人の不調は消化器から始まると、アーユルヴェーダでは考えている。
漢方的な世界観では、何らかの理由によって「脾(=膵臓やそれに伴う働きのこと)」が弱ると、消化不良になっていくと考えている。

消化不良になるとどうなるか?
きちんと吸収や代謝ができなくなる。そのため体には必要な栄養が行き届かなかったり、不要なものがきちんと排出されなかったりする。
そんなことが続くと、身体は「非常事態だ!」と思うのだろう。
なんとかせねばならないから、エネルギーを蓄えて対処しようとする。

不調時の「何かほしいな」と、調和時の「お腹減ったな」はまるで違うということ。
知ってました?

だからこの場合の不調には、「食べない」ことが正しい。
ひたすら寝るとか、身体を温めるとか、温水を飲んで内臓を助ける、ということをするのがよい。

今日はそんな日だった。
波のように眠りが繰り返しやってきて、夢が様々に立ち現れては消えていった。

すっきりと目覚められず、ふとんから離れたくない時、あなたは疲れている。
人間は元気だと、そもそも寝てなんていられない生きものだから。
とことん寝ることが薬だとわかれば、この世の医療は少しシンプルになるかもしれない。

 

 

№443 出会いに揺さぶられる

「『私はブラフマンを知っている』という誤った観念を捨てて、アートマンの見は不断であり、行為主体とはならない、と知っているもの、その人だけが真実にアートマンを知っており、他のものはそうではない。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-13



人は別れ、そして出会う。

6歳で生まれた土地を離れてから、いくつかの場所を転々としてきた。
土地土地によって、景色も空気も、味も、もちろん人の気質も違う。
山はどこにでもあるけれども、目に見える山並みも異なる。私は若く感受性の高い時期を九州で過ごしたので、あの山並みは見ただけでわかると思っている。

生まれて初めての勤務先が、その任務特性的に機動性の高いところだったので、1日で日本の北から南まで移動したこともある。例えば、九州に行こうとしているのに、北海道、青森、埼玉経由であるとか。
そういうことを経験すると、ある1日が、この国の中でどんなにその在り様が異なるかがわかる。私の当たり前は、どこかでは非常識となる。

そういう感覚を理解して、今いるここの、今のこの年齢や経験の自分の基準や考えに対して、常に柔軟性を持って生きていければいい。
今の自分の考えに「それウソかもしれないし」とツッコミを入れてやれるような、客観性をもっていたい。

自分の足場や基準値が大きく揺さぶられるのは環境要因も大きいけれども、人と出会い、触れ合うことがもっともはげしい変動を与えてくれる。

慣れ親しんだ誰かとの別れは、その記憶が穏やかに残り続けることでいつまでも自分自身に滋養を与えてくれるようなものもあるし、逆に、思い出のすべてが塵になってしまうような別れもあるだろう。哀しみのあとで、記憶が浄化されるような別れもある。

転々としながら生きてきたこともあって、また自分自身の生き方から、私は多くの別れを経験してきた。
距離が人を隔てるとは思っていない。
意思さえあれば、時間や距離は軽々と飛び越えることができる。でも人は山ではないのに、まるで山のように動かない人もいる。その場合は、関係性を構築しているどちらかがそれをひょいと乗り越える軽やかさを持たねばならない。

乗り越えるためには、乗り越えたいと思う心が必要で、ということはやはり人を隔てるのは距離ではなく心である。同時に、心があっても時やタイミングをどうしても乗り越えられない場合がある。
そういうときに、この世は人の力では何ともしようがないものによって動かされているのだなと改めて感じる。

 

基本的に、人と人の関係性に対してペシミスティックな見方が私の根本にある。
これまでの生き方だけでなく、親の世界観も私に影響を与えている。

人は簡単にわかれてしまうことがある。
誰にでもいつか必ず死がやってきて、どんなに愛しいひととも別れる日がやってくるだろうに、それでも人は生きてわかれる。生きていることに対する傲慢さのように。

ほんとうは、私たちは一瞬たりともわかれていない。
そもそも、わかれることのできる私というものが存在しない。
それは理解しているはずなのに、誰かとの別れを寂しいと思い、その心の動きから言葉や音楽が生まれる。

だから新しい出会いに憶病にならず、その出会いから関係性が深まっていくことや、その出会いによって自分自身が大きく根底から揺さぶられて何かが壊れるような怖れを抱いたとしても、壊れる自分なんてないという正気を取り戻して、揺れる自己存在を見つめていられる視点を養っていきたい。


逆らえぬ感情には従うがいい
それがつかの間のものであろうとも
手をとらずにいられぬときには手をとり
目の前の人の目の中に覗くがいい ……

 (谷川俊太郎詩集・手紙「水脈」より )

№442 とことん遊ぼう

「粗大な身体と微細な身体と同一視され、潜在印象の形をもったアートマンによって、行為がなされる。私の本性は、『そうではない、そうではない』(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド2・3・6)のであるから、わたしによってなされるべき行為は何処にも存在しない。」    ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-14



茶道には馴染みのないお客様に、茶を供させて頂く機会を頂いた。
遠方から到来される方なので、心づくししておもてなししたい。
さて、どのような趣向でさし上げたものか。

お盆を用いた簡略版の「略点前」というものがある。
お湯と、最低限の道具があれば茶が飲める。実にシンプル。
茶室ではない場所でお茶をさし上げるので、この度はこの点前を行う。

茶を飲むというそれだけのことを、ここまでのセレモニーにした尖った遊びなんだから、ただ茶を点て出し(=点前の披露がなく、点てたお茶だけお出しすること)で飲んでもらうだけではつまらないような気がする。
この世に生きることを神の遊戯(リーラ)ともいうではないか。
それではとことん遊んでやろう!と思い、数日前から準備にかかっている。

とにかく茶碗である。これがなければ始まらない。
ご縁あって私の元にやってきた、富山・須山窯、昇華先生の「波」の茶碗を用いることにした。
特別にめがね箱(二つ入る箱のこと)を調えて頂いた、白と青の対の茶碗。
箱にまでサプライズで昇華先生が波の絵を描いて下さった、私のお宝である。

陶芸の世界ではまだ若手のこの先生に、私は惚れ込んでいる。
師匠も、社中の仲間も惚れ込んでいる。
数年に一度の展示会には皆でなんども足を運び、先生と直々にお話をさせて頂く。
絵付けにプラチナ等を贅沢にご使用になるのは先生の美学で、「これでは先生の儲けが出ない」と高島屋の美術の方が嘆いておられた。

まだご存命の先生の作品は、比較的価格が低い。
が、茶道具はお金があるから買うものではない。惚れて、なんとかして手に入れる。
もちろん惚れぬいても買えないものもたくさんある。そっちの方が多い。とても切ない。
でも、惚れるのも勉強だから、絶対に今の自分には買えないものも見に行く。
現代では売買されない宝のような道具も、美術館に見に行く。
連れて帰れないので代わりに図録を買って眺める。「ああ、やっぱり写真では良さがわからんなあ」と言いながら。

昇華先生の展示会を日本橋かどこかでされていた時、富裕そうな男性が来て「ここからここまで全部買うから、値段を出せ」と言ったそうだ。
先生を見出し育てられた外商の方は、「お帰り下さい。ここにはあなた様にお売りできるものはございません」と丁重に申し上げ、お引き取り願ったと聞く。
買えばいいわけではないのである。
物と言えど、惚れなければ。相思相愛なら至福だ。

師匠とご一緒にこういった展示会に伺うと、「どうぞお手にお取りになって」とお声掛け頂くことがある。普通はNG、絶対に触ったらダメ。でも、師匠がお側にいて下さるとお許しが出る(なので、師匠とご一緒させて頂くのが一番勉強になる!)。言わば師匠が保証人になってくださるわけである。
ここで師匠がお止めになる場合もあるだろう。その場合は、改めて日々の稽古に精進し、道具の扱いに関する師匠からの信頼を高めていくしかない。

茶道具は「道具」であるから、点前をするものの手になじむ大きさというものがあるし、好きな重みやテクスチャーというものもある。私は重めの茶碗を好むし、濃い大服(量が多め)で茶を飲みたいので小さめの茶碗は好まない。
見ていると惚れ惚れするのに、実際に触れるとガッカリすることもある。
素敵だと思ったのでデートしてみたけど、ちょっとね…という感じだろうか。

まあまあ、そんなこんなで準備に余念がないのである。
こうやって実際に茶をさし上げる前から盛り上がっているから、本番も楽しいに決まっている。どうせやるならとことん、今の自分にできる範囲で、魂が冴えるまでやってみようではないか。

「茶会は亭主が一番楽しい」「面倒なことを、面倒と思わず楽しめるようになることが成長」という茶人の気持ちの一端に触れる機会を与えて下さったこのお客様に、心からの感謝を。

 

 

№441 泣くことしかできなくても

ホロコースト関連の書籍で、気になるものは手に取るようにしている。

ここ数年読んだもので特に印象に残っているものを新しい順に挙げると、
ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」「ニュルンベルク合流」、
そしてようやく映画化された「HHhH」だろうか。

そして今回、サンティアゴ・H・アミゴレナの「内なるゲットー」を手に取った。
さらっと読み進めることができる小説だ。表面的には。

 

1940年9月、ブエノスアイレスに暮す38歳のユダヤ人、ビセンテ。彼が主人公。

儚いくらい繊細な顔立ち、唇、眉、ほっそりした鼻、口髭は東洋の書道家の巧みな筆で描かれたように精妙。
義父が結婚前に、《正直者にしてはやけにめかしこんでいる》と胡散臭く感じるほど華のある青年だ。

ビセンテは1928年に親友と共にポーランドを離れたが、彼の地にはまだ母と兄夫婦がいる。
母から何度も手紙を懇望されながら、面倒がってなかなか出さない。母からは月に数度の便りがある。
ヨーロッパ情勢の変化を見て周囲の友人たちは家族を呼び寄せるが、ビセンテは積極的には動かない。でも、万が一母たちに何事かあれば、助けるのはこの自分だと思っていた。

次第に母からの便りが遠のくことにビセンテは何事かを感じ取るのだが、ブエノスアイレスでなくても、その当時のナチスの勢力下でどんな事態が進行しているのか、誰も知ることはできなかったし、その真実の一端に触れるための情報には真剣に向き合わなかった。
「こんなことが本当のはずがない。とんだ捏造だ。」と。

主人公は家族、とりわけ母を案じ、自分の内に籠っていく。
真実を知ることから逃げるように、妻や子供にも心を閉ざしていくが、1943年5月母から最後となる手紙が届く。


私たちは今この時代にあって、あの頃起こったことを俯瞰して理解した気になることができる。
過去や歴史に学ぼうと思っていたりする。

あそこで起こったことを今私たちが知ることができるのは、あの環境の中から生還した人たちがいるからであり、体制側にいながら真実を知らしめようと苦悩した人がいるから。

そしてもっと多くの、大切な人を失った人たちのなかの勇気ある人たちが、その痛みを乗り越えて、なぜどのようにして愛する人たちが死ななければならなかったのかを後世に伝えようとしてくれたからだ。

ビセンテは語らないことを選んだ。
誰にも。

母を案じ続けた四年の内に、若きダンディーの面影はひとかけらもなくなり、年寄りじみた親父になった。誰も、なぜ彼がたった四年であんなに老け込んだのかと首をひねった。


この本は、ビセンテの孫が書いた小説だ。
曾祖母が当時ポーランドから出した便りは、今も現存しているという。
ビセンテは語らなかったが、血脈を通じて彼の嘆きは小説となり、私の心を打つ。

今春、コロナ禍のなかで、著者アミゴレナは次のような問いを投げかけた。
「現在われわれが躍起になって救おうとしている命は、ふだんから飢餓や気候変動、戦争で失われている命よりたいせつなのだろうか? 」

著者は「物事は循環すると考え」たいと述べ、今も非人道的なことは起きていて、それは語られないことを指摘している。


ここで私は、非人道的な行いには、もっとうんと小さなことも含まれていると言いたい。

誰かが、誰かのために、もう少しだけ何かをしてあげたら、その人は生きるのが楽になるかもしれないのに。
制度とか法律とかを盾にとって、自らの努力を放棄してはいないか。
そんな仕事の先に、泣き、苦しみ、生きる意欲を失ったり、もしかしたら自ら死を選ぶ人もいるかもしれないのに。
それが直接目に触れなければそのことを想像することも、共感することもない。

アイヒマンの仕事のすべては机上で為されたことを、私もかつて国家公務員として事務に当たっていたことがあるからこそ、戦慄と共に想像する。

自分が知ることのできた事実にただ泣くことしかできないとしても、「なんとかならないのか」という慟哭の思いと共に、生きることができればと願う。

 

内なるゲットー

内なるゲットー

 

 

№440 先生としての原点

「もしその混迷に陥っている観念やそのほかの観念は見には属さない、と知れば、その人こそ疑いなく、ヨーガ行者の中の最も優れたものであり、他のものはそうではない。」
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-7

 

 

ふとしたきっかけで、昔のことを思い出した。
22歳の冬、思いがけず昇任してしまった。同期の誰よりも、先輩よりも早く、すれ違う知らない人に嫌味を言われるようなタイミングだった。当時の恋人は辞退してくれと泣いた。

そこから3か月、山口県の教育隊で昇任にともなう訓練課程に入った。
小グループ(10数名)の指揮官としての教育。

この小グループが任務遂行時の最小単位であり、最も上官と部下の結びつきが強くなる。

いざというとき「命が危うい任務をお前がやってくれ」と直接伝え、従わせるのが、このリーダーの最も大事な役目である、と私は認識している。

 

約100名の大隊が2個。大隊を半分に分けて2個小隊とする。
小隊を4個に分けた「班」という単位で主に活動をする。
班の人数は12名くらいだったと記憶しているが、うち女性は私1人、しかもほぼ最年少という環境。100名中、女性隊員は8名程だった。

航空自衛隊の、さまざまな職種の者が雑多に集まる集団。
皆その職種で3~10年ほど勤務してきており、それぞれの職域が持つ独特の雰囲気を身にまとっている。絶対にその職務内容について語ってはならない先輩もいた(情報関係)。

そこでは戦闘訓練や基本教練における指揮行動、関連法規などを学ぶのだが、印象に残っているのが「指揮統御」の授業。
現れた小隊長が「今日は映像教材を見てもらう」とモニターに映し出したのが、映画「ランボー」。
そう、あれ。スタローンさんの、1982年の。

まさか皆さんの中に「ランボー」をただのアクション映画と思っている人はいないですよね? ちなみに私はこの教育以前に見たことがなかったので、ただのアクション映画だと思っていた。「なぜ指揮統御でランボーなの…」と。

ランボーは決して好戦的なキャラクターではない。それどころか戦いはしたくないし、何なら戦うことも含めた世のなかのあれやこれやから距離を置きたい、というかとにかく放っておいてほしいと常に願っている。
 戦地での苛烈な経験で精神を病んだベトナム帰還兵、ジョン・ランボーが米国ワシントン州の田舎町で迫害を受け、自らの身を守るために暴走する。映画のトーンは寒々しく沈鬱で、70年代帰還兵ものの流れを汲む作品。」
(「最新作に向けて『ランボー』4作を履修!」より https://www.banger.jp/movie/35098/

ランボーは、トラウマを負った帰還兵。
戦闘行為にまつわる強烈なトラウマがあって、平和な街の住人による心無い意地悪によって過去の記憶がフラッシュバックして、理性的な行動がとれなくなる。でも平和な街の人たちに彼の気持ちが理解できるわけがない。それは仕様がないこと。

ランボーの気持ちを理解して彼の行動を止めることができるのは、軍隊や戦闘行動、そしてそれに伴う心理を理解している上官だけだった。
だから、指揮統御の授業にこれを見ることは、正しい。

人は言葉で表面的には指揮できるけれど、最終的には言葉でないものでしか統御できない(動かされない)し、それができなければ任務達成もできないことについて、この課程で私は学んでしまった。


その数年後、新採用隊員(数日前まで高校生だった女子たち)の指導教官も経験したが、教官は上官でもあるからこそ「大丈夫?」「がんばって!」などという言葉はかけられない。一定の距離を保つ必要がある。
でも「無事に課程修了させて、部隊に送り出す。絶対に挫折させない。必ず守る。」という強い意思をもって教育に当たっていて、それを言葉ではないもので伝え、挫けそうな瞬間に手ではないもので支え、長期的な視野を持って育てていく義務がある。
訓練だけこなせても意味がない。部隊において、女性隊員としてのハンディを抱えながら現実の任務に当たれなければ。

日ごとに、できなかったことができるようになる。
仲間と喧嘩してもどこにも逃げられない。家に帰りたくなる。
そういう様子を見ながら、でも少しずつ育っていく学生を見て涙がこみ上げていた。
今、思い出しても泣ける。

自衛隊で先生役を経験してから、私は涙脆くなった。「目頭熱い班長」と呼ばれていた。

あの若い日の訓練から、私の「先生人生」は始まっていると思う。
全くやったことがないことでも、誰でも、学ぶことで出来るようになるということを信じているのも、サトルボディで場をハンドリングできるのも、たぶんそのお蔭。

№439 すでに選んでる

 

ブラフマー神をはじめとして植物にいたる一切の生物は、私の身体である、ということが言われている。この身体以外の何ものから、欲望・怒りなどの諸欠点が私に生ずるのであろうか。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-4

 

 

先日は中秋の名月だったとのこと。
そんなことも知らずレッスンの帰りに「今日の月はきれいだな」と思いながら、郡部の町の夜闇の中で金木犀の香りを聴いていた。

夏もわずかな香を残すのみとなり、また来年出会うまで去っていこうとしている。
盛夏の象徴にも思える木槿の花がまだ小さく開いているから、あと少し、夏の気配は感じ続けられるのだろう。

この夏は自分にとって過激な季節だった。
初めてのことが押し寄せてきて翻弄されている状態は、今もまだ続いている。
昨秋、大きな葛藤を共有してきた母を送り、自分の人生あとは平穏だなと勝手に思い込んでいたところだった。

人間関係にまつわるトラウマなのか、それとも単に順次浄化していくべきシャドウなのか、内面に課題がまだまだ山積みであることを突きつけられた。

慧心師が昔、「はやく年を取りたい」とよく言われていたことを思い出す。
今、師は70代になられてノビノビと生きておられるように思える。
伝統の世界では50,60代はまだひよっこ。わたしなど卵から生まれてもいないのだろう。70代の慧心師は、10代の若者のように世界を満喫しておられるのか。

心の中に激しい慟哭と哀しみが有りながら、同時にこれまで経験したこともないような至福と、心身の調和がある。
いったいどちらを自分の真実として、道を選び進んでいけばよいのか。

と、毎日をこんな気持ちで生きているところへ、仙台のヨガ教師Sちゃんからの啓示が降ってきた。
Sちゃんは、私など足下に及ばないほどインド哲学を勉強している。生き方も腹が据わっている。私も負けていない方だと思うが、毎年研究総会の夜に出会って語り合うと、話は何処までも深くなっていく。

そのSちゃんのこの度の話はインド占星術にまつわるものだったのだが(占いといえどヴェーダ聖典に基づいている)、人生、お前の勝手には選べないという結論なのだった。

ものごとが突然起きてびっくりしているのはお決まりの演技のようなもので、そこでびっくりして劇的な経験を積むために「忘れる」という選択をして、私たちはここにきている。

すべては私が、絶対者ブラフマンの下で選び、決めてきている。
誰と逢い、誰とわかりあい、愛し、泣き、苦しんで、そして別れたり充たされたりするかも。

起きることを決して拒絶しまいと理性では思っている(OMは応諾だから)。
でも実際にそこに生きると、過去に積んできたものと共に私はものごとを受け止めねばならない。
その作業には時間がかかる。焦らせないで欲しい。
何事もゆっくりとであって欲しい。
絶対的な存在そのものの動じなさに、身体と心が調和していくのは一苦労だから。



№438 ちいさなことから

「鏡の中にある顔の映像のように、見(=アートマン)の映像を宿している統覚機能の観念を見て、ヨーガ行者は『アートマンを見た』と考える。」
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-6

 

誰かが私をしあわせにしてくれたり、どこぞのお医者さんが奇跡的ななにかを施してくれて、キレイさっぱり今の悩みが消えてしまったりすることが、もしやあるのではないか?

と、妄想している人はほとんどいないと思うが(いないことを祈るが)、そんなことはそもそも起きない。

大きな悩みに関しては、薄々皆諦めている。
でも小さなことだったらどうかな?

教室に来る人は何かに困っているから、その場所に来る。
腰が痛かったり、膝が痛んだり、肩がパンパンに張っていたり、体重管理に悩んだり、血糖値が高くて検診で引っかかったりしている。

 

こういう小さなことに関して、何か劇的な解決を求めている人は存外多い。

「何をしたらいいでしょうか?」と言うところまではオープンハート。
「なんでもします!」と言う人もいる。

でも、
地味なことを、毎日たゆみなくコツコツ行うと人生は間違いなく変わるよ、とお伝えすると、多くの場合「えー、めんどくさい」となる。

教室に定期的に通うだけじゃダメなのかよう、という反応は多い。
何もしないより、何かする方が全然いいので、まずはそれでいい。

でも知っておいて欲しいのだ。
微細な取り組みは、怖いくらいの変化を生むと。

先日、静岡県浜松市で収録と合宿があったので、その際に信頼する理学療法士の大石先生に実技指導をして頂いた。

私が普段、自分のために行う実習(ヨーガ・アーサナ)に対して、大石先生の知見からアドバイスをいただく形を取り、ポーズをとる隣から、主には言語で「恥骨を引き上げて」「土踏まずを床に押す感じ」「頭を下げて」という指示が出る。

傍から見ていると私の取っているポーズにばかり注意が向いて、いったいなにをしているのやら、という感じだったと思うが、小さな指示に応えようとすると物凄く!キツいのだ。
やっている最中におかしな声が出るくらいのしんどさ。
希望していたメニューの半分もこなすことが出来なかった。しんどくて。

外からはわからないと思う。でも体は内側で大きく動く。力は小さいが、広範囲に影響が及ぶ。いつも使いきれていない部分が悲鳴を上げる。息が止まる。心拍数が上がり始める。

この時の感覚を思い出しながら、後日ひとりで実習を行っていたところ、立位の姿勢から後屈した時に大きくバランスを崩し、隣の部屋まで跳んだ。
あとで見ると、右手と右下半身に内出血していた。

 

普段の何気ない動作が、疑問符だらけになるような小さな動き。
呼吸法で試して欲しい。

お尻の上に頭が乗っているか?
背筋が伸びているか?
胸は開いているか。
肩甲骨が背中の中心によっているか?
肩が上がっていないか?
吸うことではなく、吐くことに意識を集中できているか?

意識を向ける点はまだまだある。
一つ小さなことに、十分に意識を向けることを学べば、他のことに応用できるようになる。
だから何か一つのことから、それをとことんやるんだと決めて、小さな力の大きな効果を自分のものとしていって欲しい。

小さなことを続けることで自分が変わると気付いた時、人になにかをしてもらわなくてもいいことに気付けるはずだから。