蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№438 ちいさなことから

「鏡の中にある顔の映像のように、見(=アートマン)の映像を宿している統覚機能の観念を見て、ヨーガ行者は『アートマンを見た』と考える。」
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-6

 

誰かが私をしあわせにしてくれたり、どこぞのお医者さんが奇跡的ななにかを施してくれて、キレイさっぱり今の悩みが消えてしまったりすることが、もしやあるのではないか?

と、妄想している人はほとんどいないと思うが(いないことを祈るが)、そんなことはそもそも起きない。

大きな悩みに関しては、薄々皆諦めている。
でも小さなことだったらどうかな?

教室に来る人は何かに困っているから、その場所に来る。
腰が痛かったり、膝が痛んだり、肩がパンパンに張っていたり、体重管理に悩んだり、血糖値が高くて検診で引っかかったりしている。

 

こういう小さなことに関して、何か劇的な解決を求めている人は存外多い。

「何をしたらいいでしょうか?」と言うところまではオープンハート。
「なんでもします!」と言う人もいる。

でも、
地味なことを、毎日たゆみなくコツコツ行うと人生は間違いなく変わるよ、とお伝えすると、多くの場合「えー、めんどくさい」となる。

教室に定期的に通うだけじゃダメなのかよう、という反応は多い。
何もしないより、何かする方が全然いいので、まずはそれでいい。

でも知っておいて欲しいのだ。
微細な取り組みは、怖いくらいの変化を生むと。

先日、静岡県浜松市で収録と合宿があったので、その際に信頼する理学療法士の大石先生に実技指導をして頂いた。

私が普段、自分のために行う実習(ヨーガ・アーサナ)に対して、大石先生の知見からアドバイスをいただく形を取り、ポーズをとる隣から、主には言語で「恥骨を引き上げて」「土踏まずを床に押す感じ」「頭を下げて」という指示が出る。

傍から見ていると私の取っているポーズにばかり注意が向いて、いったいなにをしているのやら、という感じだったと思うが、小さな指示に応えようとすると物凄く!キツいのだ。
やっている最中におかしな声が出るくらいのしんどさ。
希望していたメニューの半分もこなすことが出来なかった。しんどくて。

外からはわからないと思う。でも体は内側で大きく動く。力は小さいが、広範囲に影響が及ぶ。いつも使いきれていない部分が悲鳴を上げる。息が止まる。心拍数が上がり始める。

この時の感覚を思い出しながら、後日ひとりで実習を行っていたところ、立位の姿勢から後屈した時に大きくバランスを崩し、隣の部屋まで跳んだ。
あとで見ると、右手と右下半身に内出血していた。

 

普段の何気ない動作が、疑問符だらけになるような小さな動き。
呼吸法で試して欲しい。

お尻の上に頭が乗っているか?
背筋が伸びているか?
胸は開いているか。
肩甲骨が背中の中心によっているか?
肩が上がっていないか?
吸うことではなく、吐くことに意識を集中できているか?

意識を向ける点はまだまだある。
一つ小さなことに、十分に意識を向けることを学べば、他のことに応用できるようになる。
だから何か一つのことから、それをとことんやるんだと決めて、小さな力の大きな効果を自分のものとしていって欲しい。

小さなことを続けることで自分が変わると気付いた時、人になにかをしてもらわなくてもいいことに気付けるはずだから。