蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№439 すでに選んでる

 

ブラフマー神をはじめとして植物にいたる一切の生物は、私の身体である、ということが言われている。この身体以外の何ものから、欲望・怒りなどの諸欠点が私に生ずるのであろうか。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-4

 

 

先日は中秋の名月だったとのこと。
そんなことも知らずレッスンの帰りに「今日の月はきれいだな」と思いながら、郡部の町の夜闇の中で金木犀の香りを聴いていた。

夏もわずかな香を残すのみとなり、また来年出会うまで去っていこうとしている。
盛夏の象徴にも思える木槿の花がまだ小さく開いているから、あと少し、夏の気配は感じ続けられるのだろう。

この夏は自分にとって過激な季節だった。
初めてのことが押し寄せてきて翻弄されている状態は、今もまだ続いている。
昨秋、大きな葛藤を共有してきた母を送り、自分の人生あとは平穏だなと勝手に思い込んでいたところだった。

人間関係にまつわるトラウマなのか、それとも単に順次浄化していくべきシャドウなのか、内面に課題がまだまだ山積みであることを突きつけられた。

慧心師が昔、「はやく年を取りたい」とよく言われていたことを思い出す。
今、師は70代になられてノビノビと生きておられるように思える。
伝統の世界では50,60代はまだひよっこ。わたしなど卵から生まれてもいないのだろう。70代の慧心師は、10代の若者のように世界を満喫しておられるのか。

心の中に激しい慟哭と哀しみが有りながら、同時にこれまで経験したこともないような至福と、心身の調和がある。
いったいどちらを自分の真実として、道を選び進んでいけばよいのか。

と、毎日をこんな気持ちで生きているところへ、仙台のヨガ教師Sちゃんからの啓示が降ってきた。
Sちゃんは、私など足下に及ばないほどインド哲学を勉強している。生き方も腹が据わっている。私も負けていない方だと思うが、毎年研究総会の夜に出会って語り合うと、話は何処までも深くなっていく。

そのSちゃんのこの度の話はインド占星術にまつわるものだったのだが(占いといえどヴェーダ聖典に基づいている)、人生、お前の勝手には選べないという結論なのだった。

ものごとが突然起きてびっくりしているのはお決まりの演技のようなもので、そこでびっくりして劇的な経験を積むために「忘れる」という選択をして、私たちはここにきている。

すべては私が、絶対者ブラフマンの下で選び、決めてきている。
誰と逢い、誰とわかりあい、愛し、泣き、苦しんで、そして別れたり充たされたりするかも。

起きることを決して拒絶しまいと理性では思っている(OMは応諾だから)。
でも実際にそこに生きると、過去に積んできたものと共に私はものごとを受け止めねばならない。
その作業には時間がかかる。焦らせないで欲しい。
何事もゆっくりとであって欲しい。
絶対的な存在そのものの動じなさに、身体と心が調和していくのは一苦労だから。