蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№437 そこに氣があるから

「『君は行為せよ』『君はまさにそれ(=ブラフマン)である』という二つの相矛盾する観念が、同時に、同一の拠り所を持つことが出来るのか、合理的に説明せよ。」

 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-4

 

 

突然、長女が「母さんが言ってる、気ってなに?」と訊ねてきた。

てっきり授業(仏教系)で生じた疑問なのかと思ったため、
「インドで言うプラーナ。生命力。レイキもまったく同じもの」
と答えたところ、「え」と絶句された。求めていた解説とは解離していたようである。

その後、JK剣士と「氣」について語り合った。

剣道をしていて「氣」がわかりませんとか、ありえんし。
というのがJK剣士の第一声。実に頼もしい。

先日、三段の審査を受験したのだが、その準備の過程で、推定六段の指導者に受けたご指導のことを語ってくれた(推定、とあるのは、娘が正確な段位を存じ上げないだけ)。

形の試験では、三段は七つの形で受験する。
その三つ目の動作の時、指導者の木刀の切っ先は常に相手の眉間を向いていて、決して外れることがなかったそうだ。

それは、どうにも嫌な心持になる(生命の危険を感じさせられる)ことだそうで、
「こんなことが出来るようになるまでに、いったいどれほどの稽古を積めばよいのか」
呆然とした、と語ってくれた。

先日も段位試験のことについて書いたが、初段から始まる形の試験では木刀を使用し、寸止めを行うのだが、この「寸止め」は相当に難しいはずである。

ちなみに航空自衛隊の一般女子隊員教育課程では剣道1級を受験させていたが、短期的な努力で何とかなるのはそこまでなのだろう。

木刀を安全に操作できる段階というのは、ヨーガで言えばプラティヤハーラ(制感)に当たるのかもしれない。

体操は出来る(ように見える)。しかしそれは狭義の解釈ではヨーガではない。
自我を制御もできていなければ、大いなるなにかと繋がってもいない。
繋がっていなければ、ヨーガは達成されてなどいない。
それはヨーガが難しいんだよと言いたいわけでなくて、あなたが完全なる安心感に導かれなくては、どんな行法も意味がないのだと知って欲しいから。
ヨーガとは大いなるものと繋がり至福を達成すること。
安心で、満たされている、という思いに到れないなら、ヨーガをすることなんてない。
もっと他の方法で楽になって欲しい。

茶を点てるのは誰にでもできる。ヨーガ・アサナも同じく。竹刀だって私にも振れる。
瞑想らしく座って見せることもできる。

そこにある違いとは何なのか。
それは氣が説明してくれるだろう。

氣が込められている点前では、お客様から決して氣は離れない。
場全体を意識しながら主客のやりとりは行われ、なんの取り決めもないのに阿吽の呼吸で調和がもたらされる。
作法とか、点前の歴や技術はそこでは意味を持たない。一体感とともに、この一瞬を共有できた喜びがある。

氣が込められたアサナならば、私の心身と魂が命の原因たるものと一体になり、計り知れない安心感と至福が生まれる。

剣道ならば、心技体がひとつとなり、そのとき身体は丹田から自然に前に進み出るそうだ。
勝ち負けを競いながら、勝ち負けを超越しようとする意志をもって。

ヨーガとは生き方である、と私たちは考えている。
この一瞬、私は自らのなかのアートマンと共にあることを確信しつつ、自らの内外に遍在するブラフマンとも調和することを望む(一度たりとも離れたことがないのに、そういう遊びをしてみる)。

 

氣を言葉で語ることは難しい。決して語れないものでもある。
でもそれは確かにそこにある。そして感じることが出来る。

今、私は確かに、物理的に離れたところにいるあなたの手を握ることができる。
万処に遍在する氣をもって。

目を閉じて感じて欲しい。
気のせいだと思わないで、必ず感じ取れると信じて欲しい。
誰も、いつも一人ではないと気付いて欲しい。

 

 

№436 帰るところ

「この世において認識されるものは何でも、アートマンと同一視されてしまう。それゆえに、人は混迷に陥り、そのために真実のアートマンを見出せないのである。」
    ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-2

 

 

昨日、筝曲の稽古で、1年数カ月ぶりに「六段の調」の稽古をつけて頂いた。

古典の名曲「六段」。
段物または調べ物の代表曲。
近世箏曲の祖である八橋検校により作曲されたと伝えられている。
各段が52拍子(104拍・初段のみ54拍子)で六段の構成となっている。
歌を伴わない純器楽曲である。

「筝曲はこの曲に始まり、この曲に終わる」と言われる。
箏も三絃も、この曲が一通り弾けるようになったとき初伝のお許しを頂いた。

このように大事な曲なので、とにかく回数は弾いている。でも納得できたことは一度もない。
人前で演奏しようとしたらどれだけ大変か、と師匠がいつも仰る。

でも師匠譲りでキモのいい私は、恐れを知らずにライブ・セッションをさせて頂いたことがあるのだ!
(師匠には内緒で。ごめんなさい。)

そのとき胸をお借りしたのが茶喜利さん。

女優、浅野温子氏の「よみ語り」で音楽を担当していることでも知られるアーティスト。独自の音楽療法「マザーノート」や、世界先住民族の会議に参加し世界各地でセレモニーやセミナー、そして最近では体幹を整えるウォーキングのワークショップも行っている。

ご宿泊中の奥出雲の宿(島根県雲南市の湯之上館)に箏を持ち込み、打ち合わせもリハーサルもまったくなしで、

ただ申し上げたのは

「私は自由に弾きます。茶喜利さんにはきっとわかると思うから、
合わせて頂けますか?」

ということ。

ちなみにその数年前、私にとっての兄のような存在の強い勧めを受けて、茶喜利さんの「マザーノート」セッションを受けた。

茶喜利さんが仰るには、すべての人のなかには固有の音楽があるという(周波数や波動のことだと思う)。
茶喜利さんはそれを聴くことができ、即興の演奏でそれを聴かせてくれる。

誰ひとりとして、自らの内で、美しくない音楽を奏でている人もいない。力強くない音楽もない。
その、自分のなかの美しい音楽を人は自ら聴くことができず、信じることができないから悩む。

だからこそ、誰かがそれを取り出して、聴かせて差し上げることが必要になる。
それが「マザーノート」のセッション。

セッション中、私は目を閉じて茶喜利さんの演奏を聴いているだけなのだが、そのなかに三絃の「六段の調」が聴こえてきた。ぴったりはまって、まるで茶喜利さんと合奏しているかのように。

そのことがあって以来、茶喜利さんに六段を聴いてもらわないと!と思ってきた。

なので、ライブセッションの際には「私を通じてこの曲を聴いているから、あなたにはきっとわかる」と申し上げた。

六段の調なので、六つのパートで構成されている。
速度もわずかずつ増していき、四段で盛り上がり、五段は勢いがあり華やかに、そして終わりの六段ですべてが静かに収まっていく。

速度を増してノッていきたいタイミングも、演奏の終わりに向けて僅かずつ緩んでいきたいときも、曲の中で実際の間がある(糸を鳴らさない)ときも、すべて私に添って頂いた。

一言でいうと「痺れた」。至福の体験だった。

この大切な曲で、こういう体験をさせてもらえたことは演奏者として実に幸せなことだったと思っている。


「六段の調」は、筝曲を志す者が常に帰っていくところ。
茶道だと、運びの点前がそれに当たる。
ヨーガならば、ひとりで毎日行うシンプルな行がそうだろう。

華やかなバリエーションや、工夫をした改良版だけで物事を行っていてはいけない。
時々は原点に戻り、初心を取り戻さなければならないことを、この曲はいつも思い出させてくれる。

慣れてはならない。一瞬たりとも、同じ時間はないから。

 

 

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№435 我を忘れ、肉体と共に

「人は、光に照らされている身体を、誤って発光体である、と見做すように、見者(=アートマン)であるかのように現れている心(統覚機能)を、 『わたしである』『見者である』と考える。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-1

昨日、段級審査会(剣道)が開催された。
この状況下で本年度初の審査会となる。通常であれば7月に行われる。

三段(正式には「参段」と表記)を受験する娘の付き添いで会場に出向いたが、正確に言うと、送迎及び、無事合格した際の登録料支払い担当者である。

本日の審査会には、9級から1級、初段から三段の受験者が集まっており、学生だけでなく、少数ではあるが社会人受験者の方もおいでになった。

三段の審査の様子を拝見して思うところを書いてみたいが、私本人は剣道については何も知らないと了解した上で読んで頂きたい。


今回の三段受験者はわずか6名。
うち1名が女子で、男子の中に1人混じっての受験である。

昇段審査には、学科試験と実技試験、そして剣道形の試験がある。

学科では、剣道の理念や練習の際意識することを理解できているかを問われる。
娘によると、思わず“天の声”を期待してしまうほど難しいそうだ。
ちなみに剣道の理念とは、「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」。
全日本剣道連盟HPより https://www.kendo.or.jp/knowledge/kendo-concept/

実技試験は、私たちがふつう認識しているスタイルで行われる(地稽古形式)。
勝ち負けを問われるわけではなく、姿勢や攻め方、服装容儀などが評価されているらしい。

最後に形の試験がある。
「日本剣道形」というものがあり、真剣を用いることを想定した剣道で重要な動きすべてを凝縮したもの。
初段から形の試験が行われるが、その当時娘は形がまったくできず、泣きながら稽古していたと聞く。

さて、初段、二段と三段と、受験者の動作や様子がまったく違うのだ。

数年の歴の差でこんなにも違うものかと思うほど、雲泥の差がある。
一言でいうと「ゆっくりとした優雅な動き」が達成されており、見ていて惚れ惚れする。

どんなにゆっくり動こうと思っても、何かのきっかけで緊張してしまうと無意識に動作が速くなってしまい、それを制御するのが大変だとのこと。

ヨーガで感覚制御ができるようになる段階を「制感 プラティヤハーラ」というが、ただ決まった動作をこなすだけでなく、はやる心を抑えつつ肉体を制御できるようになる段階が、剣道だと三段あたりということなのだろう。

また、試験の際には相手がいて、「打太刀」か「仕太刀」をその場で指定され、どちらかの役を務めることになる。役によって動作が多少違うので、これに対応するのもなかなか大変だろうと思う。
当然相手との呼吸を合わせる必要があるが、当日初めて会う相手と演舞を行うことが多いので、これまで一度も一緒に稽古をしたことがない相手との協働作業を行いつつ、ともに合格を目指す。
これも相当なストレスがかかるものだろうと察する。もしお相手の技量が自分と相当に違っていたりしたらどうなることやら…

もう一つ、これは観客席から見ていてもわからないこと。
一連の動きの中で、たった一度だけ相手から視線が離れるときがあるそうだが、本来は外れるべきでないところで、視線が相手から離れてしまうことがあるという。

自分にのみ拘泥して、目の前の人の存在が意識できなくなる時、視線は外れるだろう。目の前の人との一体感を持って調和の中で動きがなされるとき、視線のことをあえて考えずとも、相手と繋がる重要な手段として視線は合い続けるだろう。


レイキのマスターが娘に与えて下さった問いがある。
試合に臨む際、「私は負けない」「私は勝つ」「みんな勝つ(だれも負けさせない)」という三つの思考だと、どれが一番力を発揮できるかと。

現実の勝負の世界でみんな勝つことはあり得ないが、「私が!」という我執を捨てるためには「みんな(双方)」という視点を確立させることが大事である。

そしてその「みんなで」という観点を持つとき、人は精妙な存在となり、肉体の重苦しさから解放される。そのとき勝ち負けは超越され、目の前の人と共に何かを為す一体感と至福が現れ出てくるに違いない。

剣道の目指す境地では、たぶん勝ち負けは表面的なことに過ぎず、自己存在(真の私そのもの)が心やからだと一体になったときに自ずと現れる精妙な動きを、如何に呼び起こすかということなのかもしない。

一本を取ることが重要なのではない。茶道ならば、お茶を点てることが重要なのではない。ヨーガなら肉体で行うポーズにこだわることではない。
その先にある何かを見出したいとき、実際に自分の肉体を丁寧に用いた動作と、目の前の人を我と同じように大切に思うことが、大きな意味を持つことだろう。

 

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審査を待つ後ろ姿

 

№434 主体的に愛する

今日はバクティ・ヨーガのお話。
愛や信仰のヨーガであり、ギヤーナ、カルマ、ラージャを含めた四大ヨーガのなかでも至高のヨーガと言われる。

では愛ってどんなもの? ということについては、3つの定義がある。
「愛の三角形」と言われている。


①愛は取引を知らない

②愛は恐れを知らない

③愛は競争者を知らない

 

非常に深い話なので、言葉で語ったりしたくない気がする。
まあでも、試みてみよう。

まず、取引を知らない、ということについて。
「あなたが私を愛してくれるなら、私も愛しますよ」というのは、愛ではない。

ヨーガではしあわせということにも定義を持っていて、それは「無条件であること、理由がないこと」であるとされるが、それとまったく同じで、愛もまた主体的であって、無条件である。

世の中で愛だと思われているものが、実は愛でないということは、よくある。
「あなたがこういう人だったら、大事にしてあげてもいいよ」という関係性は、家族にもあるし、友人関係にもある。

あなたがそんな風でなかったらいいのに、というメッセージは、人の心の安定性を根底から揺らがせるだろうが、実は、親子や家族のなかでも多く発せられている(そして無言で伝えようとされる)メッセージかもしれない。

ふたつめは、恐れを知らないということ。
無条件で、主体的で、取引がなければ、私が愛せばそれでいい。それだけなので、そこに恐れは生じない。恐れが生まれるということは、失われたり、損なわれたりする何かがあるということ。

ここには、自分というものをどのように捉えているかという、自己意識(我執や煩悩)が関わってくるだろう。

自分が今ここでこうしていることに安心感を覚えられない場合、人を無条件で愛することは難しいかもしれない。
人間は多様な状態を行き来しながら生きているものだから、ときにふと悲しくなったり、信じられなくなったりすることもある。そういうことはあってもよい。

でも、根本的には、自分のからだのなかにあって安らげ、1人でいても心地よいという感覚を持っていることが大切だ。
ひとりで横になってそっと目を閉じればそれだけで十分安らげること、そして自分という存在に安心し満足しているならば、恐れなく人を愛することができるかもしれない。

自分の安心を、相手の愛を理由にして達成することはできないからこそ、ひとりでも満たされていることに対する責任が生まれてくると思う。真の自立とはこういうことだろう。

3つめ、愛は競争者を知らないということ。
愛は、愛であるからこそ大きく偉大で、誰かに分けられたら、私の取り分がないなどというものではない。

愛というのは、コーザルボディそのものであると私は感じている。
そこにある「場」そのものであり、場に満ちる「力」。
そこに、既に常に、無尽蔵にあるものであって、それを感知できるか否かだけが問われる。
今ここにあって、目を閉じることで、自らの身のうちを満たす愛を感じ取ることができるかどうか。

私にとってそれは、背筋を貫き、下腹部を温め、四肢に血を巡らせる実在のエネルギーである。その感覚をサトルボディとして感じ取ると、グロスボディ(肉体)に強い影響が及んでいく。至福の感覚。

神(万物を生じさせ、維持させるエネルギー)の愛として感じ取ったものを、その高貴なる顕れである個々の人への愛として表現することもできる。
これはとても重要なこと。

わが子への愛、お師匠様への愛、友人への愛、恋人への愛、クライエント様への愛。
様々な愛の表現のかたちがあるだろう。

愛する人の瞳を見つめるとき、そこに私たちは自分自身を見ることになる。
無条件に、恐れなく、誰かに奪われることなど決してない愛を、他者の瞳の中に見て欲しい。

その時あなたは、自分が既に満たされていて、なにひとつ欠けるもののない存在であることに気付く。

ヨーガを行っていくと、愛を信じることが可能となる安心感が自らのうちに醸成されていく。
単に体操をすることだと思っていれば、そんなことは決して起きないけれど。

№433 その道の名前

「それゆえに、無智を原因とする行為から不死となる望みはない。解脱の原因は知識であるから、解脱は知識以外のなにものにも依存しない。」
   ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-15



昨年の今頃、筝曲で称号を頂いた。

受験のための数年に及ぶ準備も、実際の試験も、過去に受けたいかなるテストより過酷だったので、この称号授与は実に感慨深かった。

今日はこのような、とある道で頂く「名前」について書いてみたい。

ヨーガの世界では「聖名拝受式」というものがあり、ご導師がおられる施設を訪問するとか、またはご導師が自分の住む国においでになるときに、拝受を希望し、儀式を経て名前を頂く。

この名前はインドの占星術を元に、ご導師がお決めくださる。
申し込みの際には出生日を、できれば時間まで記入するように言われたように思う。

アーユルヴェーダの治療の際も、まず自助努力、そして他者の手や薬物等々の治療を施したあと、どうにもならなかったら神頼みになると聞く。
そういう場合のためにも、親は出生時に場所と、そして時間を分に到るまで記録しておくのだそうだ。

ちなみに私は出生時刻がわからなかったのだが、聖名拝受の数年前に本格的な西洋式占星術の先生に時間を割り出してもらったことがあったので、それが役に立った。
自分が子供を生んでいる場合は、子供の出生時間や場所から割り出せるそうである。
世界には、実に深遠な技がある…。

2013年に拝受した私たちは、師匠の兄弟子(お二人)と我が師のお三方でもって名前を決めて頂いたと伺っている。
そのとき何名もの友人知人も、共に名を頂いているわけだが、どの方に関しても「なるほどね!」と思うほどしっくりきた。さすがお師匠様方。さすが占星術

自分が頂いた聖名がどんなものだったかここに書く気はないが、蓮のイラストを入れてある名刺にはこっそりサンスクリット語で印字してある。
非常に重みのある名を頂戴したと考えており、なぜこの名を授かったのか、生涯をかけて理解せねばと思っている。

茶道や筝曲では、一字か二字を自分で考えて付ける。
茶道の場合は「苗字+〇」となるので、だいたい希望が通る。
筝曲の場合は「〇+名前」となり、言わば称号が苗字のような役目を果たすので、誰かと被っていると許可が下りない。なので、第3希望まで考えたように記憶している。

この二つの名前において私自身が想いを込めたのは、
まず、この道で初めにご縁頂いたお師匠様の名前を含んでいること。
これはもちろん、それぞれのお師匠様にお許しを頂いた上で使わせて頂いている。

次に、「老子」のなかの好きな文章から、一字を使うこと。
“混沌としたものから生まれる奥深く微妙なもの”
そういうものを、芸を通じて見出せたらいいなというこころざしを込めた。

ちなみに写真は、筝曲における称号授与証書。
ご宗家の署名もあるものをすべてお見せするのは失礼かと思い、私の称号の部分のみお見せしている。

「菊」はご宗家から頂く、我が流儀を表す一字。
「妙」が奥深い微妙なものを示し、「晶」は師匠の御名。

「菊」の字は皆様共通なので、あえて口に出さないことも多い。
なので、「みょうしょう」と呼びかけられたら、それは私のことである。

 

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称号授与証書の一部



№432 自分の流儀

「刀は、鞘から抜き出されたとき、光輝くのが見られるように、認識主体は、夢眠状態において、原因・結果から自由となったときに、自ら輝くのが見られる。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-11

 

 

子供の頃から習い事に憧れて、20代の初めに楽器(フルート)の個人レッスンを受け始めたのを初めとして、あれこれとお稽古ごとをやってきた。

残念ながら、フルートは転属に伴う転居で先生とお別れしてからご縁がないまま眠っている。アマチュアであっても一生ものを、と思って購入したリッププレートだけは9KのMIYAZAWAの楽器は、いつかオーバーホールをしてやらねばならない。たまには吹いてみねばと思いつつ、たぶんあまりにも下手くそで耐えられない気がする。

あれこれやってきたが中断したのはフルートだけで、他はなんだかんだと続けてきている。

茶道に入門するとき、当時でも岐阜県茶道界の重鎮で在られた高橋妙泉先生が「花嫁修業などという名目の腰掛稽古は好まぬ」とはっきり仰ったので(花嫁修業などは一度たりともしたことなないが)、「そうか、始めたら辞めたらいけないんだな」と素人ながらに思い今に至る。そこから20年。

20年経ちました、と今の師に申し上げると、フッと笑って「たったの」と言われる。
なにしろ先生は私の3.5倍くらいの歴がおありなわけだから、その程度で何を言っておるか、ということで笑い飛ばしてくださるわけ。

ヨーガももちろん、伝統の世界は師範になってからが正式なスタートであるとか、30年過ぎたところから1年生とも言われるので、私はまだマイナス10年生。なんだか気が楽になるではないか。

ということで、私がマイナス10年生のナンチャッテ茶人であるので「作法が全然わからないから…」ということで話を振って下さる方に時々出会う。

お作法ってなんだと思いますか?

その場で従わなければバカにされたり、恥をかいたりする気づまりなルール、みたいな捉え方の方が多いように思う。それはとても勿体ない!と思っている。

もちろん私も入門時はそうだったので、初めての稽古の日に「何も分かりませんが…」と言い訳しながらご挨拶したら、「それはもちろんそうでしょう、まだ何もやってないのに知っているわけがない。」と先生に言われてコケそうになった。

知らないこと、できないことは、まったく恥ずかしいことでない。

ということを、お稽古を通じて教えてもらった。
この解放感たるや、ちょっと言葉では説明しにくい。

「わかりません」「知りません」「初めてです」
と素直に言えばいいだけなのである。
教えてもらったら「へー!」と思う。それだけ。

そこで「えー、知らないの?恥ずかしい」などと言う大人はさすがにいないと思うが、うっすらとでも態度に表すような人がいたら、それはその方が弁え違いをしている無作法者なのである。

その方の芸や技が本物なら、「知らないのは何も恥ずかしいことではないので、まっさらな気持ちでお楽しみになったらよろしいのです。」ということを伝えてくれるはず。

ご流儀やお作法は、人を守ってくれるためのものであって、傷付けるものではないから。

ああ、でも一つ申し上げておきたいことは、やはりお作法は美しいと思う。

自らの結解を守りつつ、人と向かい合う。
無駄に頭を下げることを絶対にしない(ぺこぺこしない)。
大事なものを、その価値に相応しく扱う(格に合わせた扱いをする)。
一緒に時を過ごす人を慮る。

ふとした瞬間に、この世界を見ることができてよかったなと思う。

皆さまにも、ご自身の流儀(とある場面で従う、自分なりの作法・ルール)をおひとつお持ちになることをお勧めしたい。
きっと気が楽になります。

ちなみに末広(扇子)は、結解を表現する。
おひとつ持っておかれてもいいかもしれない。

 

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№431 生命の智慧

アーユルヴェーダ施術者の考え方〉
 ・I treat, He cures.
  「私は患者に治療という行為を与えますが、治してくださるのは神様です。」  
 ・1番の医学は Sympathy (共感)である。 
 

先日、久々にアーユルヴェーダについて話をさせて頂いた。

数年前にNHK文化センターで講座を開催したこともあったが、しばらく専門的なことから離れて自分の養生に活用するのみだった。

ふと思い立ち、2009年から3年にわたり受講したヨーガの専門家対象(ヨーガ療法士養成前・後期課程履修中、もしくは卒業し認定を受けている者のみ)のアーユルヴェーダ講座(初級~上級)のテキストを久々に引っ張り出してみた。

日本では初となる、B・バット博士による講座だった。
当時、インド首相顧問医師であり、WHOのアーユルヴェーダ顧問だった方。

6~8日間の泊まり込みでの学習(修行?)。朝は6時半からお祈り、そしてヨーガと瞑想で始まり、授業終了後も質疑応答は夜半まで続いた。
卒業の翌年は、第2期上級講座の実技実習サポートに入った。治療実習ができる施設が国内にほとんどないため、こういう機会を捉えないと復習ができない。この現状は今も同じ。 
サンスクリット語の勉強も必修で、当時は自分のフルネームがそらで書けた。
 
今、あれこれ改めて見ていると実に面白い。
日本におけるアーユルヴェーダの扱いは、薬事法上の問題等もあり、美容系のビジネス展開でなされていることが多いが、そういう世界では触れられることのない知識をいくつかご紹介してみたい。

病気は6つの段階を経て進行するという「ヴィヤーディクリヤカーラ」。

不適当な食べ物や活動の影響によって、人の存在のうちに病気の素因が蓄積されていく。 これが1段階目(サンチャヤ)。
ここで解消されない場合、その素因はある一か所で増え続ける(2段階目 プラコーパ)。
一か所だけに増えたものが、他所に広がっていく(3段階目 プラサーラ)。
増えた素因は、体内の溜まりやすい箇所に留まってしまう(4段階目 スターナサムシャラヤ)。

名医は、ここまでの段階で治してしまう。
できるだけ早い段階で処置をするのがベストである。

5段階目で、初めて病気の発症となる(ヴァクティ)。
そして6段階目、病気はさらに進行し悪化することとなる(ベーダ)。

となると、私たちが通常利用している医療って…。
いや、この先を口に出すのは止めておこう。

そもそも日々の生活の中で、病気の素となるものを蓄積させない工夫が大事で、これは養生によってなされる。
日々の養生のことを「ディナチャリヤ」という。

毎日の日課
身体の浄化法、運動、ヨーガ、瞑想。
適切な量と質の食事、適切な食事時間。
責任感と正直さをもって仕事に臨むこと。
適度で健康的な性生活。
娯楽、休憩、睡眠。 食後すぐに眠ることは勧められない。

排便、排尿、あくび、くしゃみ、涙、睡眠などの自然な欲求は抑圧されるべきでない。

過度な性行為、過食、眠り過ぎ、恐れ、心配、怒り、エゴ、不快な言葉、執着、嫉妬、憎悪等は鎮めなければならない。

手軽にできるディナチャリヤとして、カレーを食べてみては。
カレー粉の黄色い色は、主にターメリックによるもの。 ターメリックサンスクリットでは「ハリドゥラ」という。 血液浄化、呼吸器系および皮膚のアレルギーを緩和、糖尿病治療、バクテリア予防、大腸の叢によい、とされている。

アーユルヴェーダは実に奥深く、面白い。
数日かけて、このテキスト、3年分22冊を読み返してみようと思う。
 

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3年分のテキストの山(非売品)