蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№416 「それ」の仕事

「賢者は、『私』と考えられているもののなかの『これ』の部分を、アートマンではないと理解して、捨てるべきである。」   ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-6

 

 

先日、ある神社の境内で弓の稽古をしているのを目にした。
その様子を見ながら、オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を思い返す。

ヘリゲルは、明治時代に「お抱え外国人」として日本にやってきたドイツ人哲学教師。
来日後、夫人と共に阿波研造師範のもとで弓術の稽古を始めるが、「当てるために矢を射てはならない」と言われ、とても混乱する。

同じような混乱は、私たちが生きる上でも起こっていると思う。

目の前の的に、いったい誰が的中させるのか?

いったい何がそこに生じ、射ること、当たることが起こっているのかを問うこの本は、ヨーガ療法士養成前期課程の推薦図書だった。
あれから10年以上の日が過ぎ、少しはその主体についての理解も深まったように感じる。

呼吸をすること、生きること、これを私たちは多くの場合「自分でやっている」と考えている。でも呼吸はそこにただ起こっているし、生きることを可能にしている生命の原理は本来、努力とは関係がない。

先月レイキを伝授頂いて以来、ご理解ある数名の方に触らせて頂いた(レイキ・ヒーリングをした、といっていいのだろうか?)が、お相手が感じ取っておられるという確かな温かさは、ただ単に私の手の温みだけなのか。

私は単に媒体に徹するように、とレイキは教える。

「それ」が働くための媒体である。私は何もしないし、できない。

そして当然、このことはヨーガでも全く同じだ。

矢を射るのは「それ」であると阿波師範は言う。
私が我を出して射ようとすることで、「それ」が顕れる余地は失われてしまうから、ただ邪魔をしないために一切を忘れて呼吸に集中する必要がある。

それなのに私たちは、自分に生きる価値があることを世界に示そうと懸命に努力をしている。

その努力をしなければまるで殺されてしまうとでも思っているかのように、怖れながら。

 

この世に存在するって、そんなに怖いことなのかな。
人間が生きるとは、何か役目を与えられてこの世界に対して何かを為すということ。

たくさんお金が儲かるから凄いとか、そういうことではない。

 

目の前にいるあなたがたとえどんなに優れた人で、どんなに偉い人であったとしても、ひとりひとり決して変わらない命そのものの美しさや輝きのなかの、あなただけを通じてこの世界に顕現している“なにか”を見つめたい。

 

あなたにしかできない何かを通じて、この世界を祝福して欲しい。
それが一碗の茶を点てることであってもいい。
誰かを愛することでもいい。
単に呼吸をすることですらも。
これは、今、私にしかできないことなのだ、と信じて。

 

 

№415 どちらもまるごと

「前に生まれた理解を否定しなければ、その後に正しい思想は生まれない。見(=アートマン)は唯一であり、それだけで確立している。それは正しい知識根拠の結果であるから、否定されることはない。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-3

 

 ヨーガはこの世を「迷妄の世界」と考えている。

すべてが幻の実体のない世界。
私が私だと思っているからだも心も本質的には私ではないし、起きて見ていると思っているこの光景がそもそも夢かもしれないのだ(たぶん夢である)。
深い眠りの底で現前しているものだけが本当のリアルだ、という説に私も同意する。

私が私だと思っているものも、実は見たままには存在していない(だろう)。
量子論ではこの世がすべて素粒子でできあがっていて、量子的な目で見ると透き通ったつぶつぶがところどころ固まりあっているだけだという。

 

このかたまりを作る要因が、それぞれの存在のもつ波・波長である。
存在はそれぞれが固有の波のパターンを持ち、似たような波をもつ者同士が引き寄せあうことになるという。
日本語では「波長が合う」という表現があるが、まさにそのとおりなのだろう。

クリスタルボウルの置いてある部屋でマントラを唱えると、共鳴して発生した倍音が静かに鳴り出すことがあるし、箏が出してある部屋でなにかを落とすと弦が響くことがある。
触れてもいないものから音が生まれるこの現象を、存在の大部分が目に見えないものである私たちは自分なりに理解しておいたほうがよい。

 

今もよく憶えているが、非常に印象深い出来事が頻発した昨年11月、出張先でとても易しい量子物理学の本と出会った。数時間で読めるような超入門編のその本を読んで思った。
これは「バガヴァッド・ギーター」の教えとまったく同じではないかと。

 

人は世界が見せるものを自分の心のなかのフィルターに従って、ふたつの極のどちらかに分類したがる。本来分類などできないありのままの姿を、自分のなかで分断してしまうのだ。

K・ウィルバーも、著書の中でこのことについて美しい表現で語る。少し長くなるが、私はこの文章の、特に末尾の部分がとても好きなので引用してみたい。

「人生が常に対立を伴って現れることに、不思議な感じを抱いたことがあるだろうか。なぜあなたが価値あるものと見なすものは、必ず価値のないものとの対立のなかで現れるのだろうか。

空間と時間の次元は、必ず対立を伴う。

上/下、内側/外側、高い/低い、長い/短い、北/南、大/小、ここ/むこう、頂点/底辺、右/左。


わたしたちが、真剣になり、重要だと考えるのは、対立の一方の極である。

善対悪、生対死、快楽対苦痛、神対悪魔、自由対拘束。

わたしたちは、したがって社会的・文化的・美的な価値も常に対立の中でとらえている。

美対醜、成功対失敗、強いものと弱いもの、利口対愚か。 

 

私たちの世界は、巨大な対立の集合であるかのようである。

 

この事実はあまりにも常識的であり、わざわざ言う必要はないかもしれない。けれども考えてみればみるほど、このことは、つくづく奇妙なことに思えてくる。なぜなら、人間がその中で住んでいる自然は、対立の世界など知らないからである。

自然は、本当の蛙と偽の蛙などを生み出さない。道徳的な木と非道徳的な木も生み出さない。正しい海と間違った海などもない。倫理的な山、非倫理的な山もない。美しい生物と醜い生物も、少なくとも自然にとっては存在しない。自然は、あらゆる種類を生み出すだけで、満足しているのである。」    (K・ウィルバー「無境界」より)

 

 

バガヴァッド・ギーターの主要な教えを端的に示すと、「二極の対立を超越すること」、そして「行為の結果を放棄する」こと。

この双方のうちのどちらががいい!という思いも、ものごとがこんな風に展開して欲しい!という思いも超越して、ただ観ている者としての視点を確立していく。
それしか私たちが解放される道はないよ、というのがヨーガの教え。

どちらかを選べば、あなたも私もその片方の極に絡め取られていく。
どちらかだけが私を滋養し、片方は私を傷つけるなどという説は放棄してしまいたい。

すべてを丸ごと、私の世界のうちに飲み込んで、いつも安らいでいたい。

 

 

№414 教え、教えられる

アートマンは否定できないものであるから、『そうではない。そうではない』といって、アートマンを否定しないで残したのである。人は『私はこれではない。私はこれではない。』というような仕方でアートマンに到達する。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-1

 

 

オンラインによるセッションを続けてきた生徒さんと、この度はじめて実際にお目にかかることができた。

初めてご連絡を頂いたのが昨年の秋のこと。
お体に痛みがあるので指導を受けたいというご相談を頂き、私が上京する際にお目にかかることになっていた。会ったことも言葉を交わしたこともない私に対してご連絡下さるのは、勇気がお要りのことだったと思う。

約束の期日の少し前に、オフィスでお倒れになられたとご連絡があった。入院治療に入られたため、お会いすることが叶わなくなり、心的な面で少しでもお力になれたらと思いながら、彼女に向けてのメッセージとしてブログを綴ったことを思い出す。

その後大きな病気であることがわかり、数カ月後、ご自宅に戻られた頃にようやく、オンラインで初めてお話をさせて頂くことができた。それ以来、プライベートやグループのセッションを続け、あっという間に8カ月という時間が経った。

そうして冒頭に述べたように、先日、ようやく生身の彼女と会うことができたのだ。
想像よりも小さな人だった。
体格の良い(身長169㎝)の私の腕にすっぽりと包まれてしまうような彼女は、オンラインでも感じていたように本当に可愛らしいひとだった。

彼女自身が治癒へと向かう過程で、「私はよくなりたい、皆にも良くなって欲しい」という思いが同じ病と共に生きる方々へも向かうことは、自らのうちにある命そのもの(すべてのものと繋がっている部分)と共鳴をすることになると信じて、一緒にYouTubeによる情報発信をすることを促しそれを過去8回にわたり行ってきたのだが、この度はリアル対談の様子を収録することになっており、これにはスペシャルゲストとして理学療法士の大石先生も加わって下さった。 https://youtu.be/4dy7Ck37X2M 

 

和やかに語らった録音の直後、彼女が突然顔を覆って泣き出したものを、私は胸に抱きとめてしばらくそのままふたりでじっとしていた。この時のことを思うと、今も胸になにかが迫ってくる。

彼女には、蔭に陽に支えてくれる何人かの存在がいる。それは本当に素晴らしいことだけれども、その誰にもいえない何かがあって、それを私たちはこれまで時間をかけて分かち合ってきたのだ。

 

茶の師匠に「習うことと教えることは同じことの別の側面であるから、教える立場ならばこそ習い続けよ」というお言葉を頂いたことがある。
この言葉を授かったことを私はすっかり忘れていたが、それでもその教えを曲げることなく従い続け、いくつかの学びを継続してきている。私にとって芸事を学ぶこととヨーガを教える行為に、根本的な差はない(表面的な差はたくさんあるが、そんなことは些末なこと)。

同じように、生徒さんに向かい合いうとき、ときには教え、そして時に教えられる。どんな立ち位置であっても、人間の関わり合いは相補的に、そして共鳴し合っている。

YouTubeをお聴きになられるとわかるように、彼女は私を先生とは呼ばない。時に私が相談をすることもある。彼女の得意技で助けて貰ったこともある。私たちは彼女の病気を滅ぼそうとも思っていない。患部に名前をつけてチームの一員と思って活動している。

どっちがどっちなんてどうでもいい。その時元気な人が、元気のないひとを助けていけば良い。時にはその立場が入れ替わる。それでよい。

 

その晩、私たちはふたりで手をつないで休んだ。まるで子供のように。

もし会わないことによるレッスンに効能があるとしたら、会えないからこそ互いを求める気持ちが醸成されることなのかもしれない。そしてその思いが間違いなく人を変容させる。
その先に治癒もあるのかもしれない。

現在あるプロジェクトに関わらせて頂いているが、動画配信から始まるこの仕事の先にも、彼女のような人がいる気がしてならない。まだ会っていないその人のことを思いながら、この仕事をやり抜きたいと思う。

№413 みずからを投げ出す

「それゆえに無知を除去するために、輪廻を止息するために、そしてブラフマンの知識を確立するために、このウパニシャッドが開始されたのである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-25

 

 

2日間かけて動画の収録をさせて頂いた。
関わって下さる皆様方に心から感謝を申し上げたい。滞在中のお心づくしにより、私自身の内的な環境づくりがこの上ない状態で進み、2日目の収録ではこれまでにない感覚のなかで仕事をすることができた。

新しい経験というのは人に打撃を与え、過去の自分を壊してくれる。
ひとりで行をして様々な事を悩み考えても、それが外界でどのように変容するのかを見たいと思う。ヨーガ行者は一切外的な刺激に心を動かされないというから、私はヨーガ教師ではあっても行者にはなり切れないだろう。

これからこういった収録の作業が続いていくので、過去に作成してきた資料などを改めて見直していくことになる。

ヨーガは普遍的なものを含む古くからのものでありながら、いつまでも新しい。
そこに新しい知見をぶつけることで、私なりのヨーガというものを再構築していく作業が進んでいると感じる。

四大ヨーガのひとつに“バクティ” Bhakti-yoga”というものがある。
ヨーガ究極の目的である隷属からの解放(Moksha)のため、神に対する絶対的な信仰を実践する道であり、「愛の道」ともいわれる。

禅で象徴として用いられる“円相”(ただくるっ、と丸を書いただけの書)は、人の変容が上がる道と下がる道の双方で完成されることを示している。ウィルバーの表現で言えば上昇の道と下降の道。そのままである。
人は知識を得たり努力したりすることによって自らを変容させようとする。その道は間違いなく人を成長させてくれるのだが、限界がある。

人が成長するとき、脳のなかでも大きな変化が生まれていく。
一瞬一瞬考えることを通じても脳は変化しているのだが、真の意味で人が変容しようとするとき、そこに安心感がなければ脳も変化していかない。副交感神経優位の状態は主観的にはリラックスしている感覚があるが、このとき身体は自らを治癒・休息・成長のモードにシフトする。

努力によって懸命に登っていく道の先には、小さな自分を投げ出す愛の道がある。
ヨーガの戒律ニヤマの中にサント―シャ(知足 Santosha)があるが、こうでなければいいのにという思いではなく「これで十分に満たされている」という思いは間違いなくこの愛の道に繋がっていくだろう。

私たちが今の自分に満足を覚えたとき、生きていることの安心感と何か大きな存在とのつながりが生まれる。なにも努力は要らなかったし、変えるべきところもなかった。その愛の中で、たぶん小さな自己の概念は死ぬことになる。

バクティはヨーガの最高の、そして完成の段階だといわれる。
カルマ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガは、バクティ・ヨーガに至るための手段でしかないと。バクティ・ヨーガこそが全ヴェーダの目的であり至高のヨーガ、そして究極のゴールだという定義を、今に至ってようやく理解しつつある。


今こうして生きているということが愛の間違いのない証拠であるという思いで、次の呼吸を感じてみる。確かに私たちは守られ、満たされていると感じて欲しい。
呼吸は私たちに毎瞬与えられる祝福なのだから。

小難しいことを教えてきた日々の上にこの感覚があるのならば、私は下降の道に入れたのだろうか。怖がりな小さな自己は、だんだんと壊されていくのだろうか。
壊された先を見てみたい。

 

 

№412 根底に流れるもの

「無明がひとたび正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることができようか。なぜなら無明は無差別・絶対の内我(内在するアートマン)には存在しないからである。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 1-8


昨晩から出張のため首都圏に来ている。
出発前にオンラインでのレッスンをやったのだが、終了後すぐに出発なので本日は音声のみでご指導しますといいながら、声をかけているうちに自分がまったりしてきてしまい、結局のところ後半一緒になって体操をしていた。
こういうとき、ヨーガ・アーサナは実に気持ちいいことということを改めて、そして強く感じる。

 

さて、先月から始まった動画等収録のため、過去のクラスで使用してきた資料を加筆修正していたのだが、ヨーガ以外のアプローチから改めて教えられることが多い。
特にフェルデンクライス・メソッドロルフィング、脳の可塑性の研究などから新しい視点を与えられ、繰り返しこれらの関連書籍に目を通しているところだ。

指導の際、なるべくマットに横たわったポーズを選択し、立って行うような動きをほとんど行ってこなかった。
当初意図していたのは、ヨーガ療法の教室に参加されるのは何らかの症状にお悩みの方が多く、痛みや苦痛のために動作が制限されているということ、また、股関節等の動きが悪いためバランスを崩しやすいから安全性を重視してだったのだが、ロルフィングの本によると、横たわった姿勢で動きや呼吸の練習を行うことで重力の影響をほとんど受けずに実習が行えるため、高い効果が得られるということだった。

ロルフィングというアプローチは、浅学ながら呼吸と感覚を重視した動きで自らの心身を調えるもののようだが、本来のヨーガは「ヨーガ・スートラ」にはっきりと明記してあるように、無智から煩悩が生じ、煩悩が心を乱し、心が乱れれば呼吸も乱れ、最終的にこころやからだに病気が生じるということを熟知した上で体操を行うものなので、当然ながらロルフィングで意図しているものを含むわけだが、現在のヨーガ業界の主要なアプローチはそのようになっていないことをとても残念に思う。

先日初めてお会いする方に、「あなたのやっているヨーガはどんなヨーガですか?」と訊ねられた。この方は、状況をよくわかっておいでの方だと思った。その後に「みんなで一緒に体操をするのですか?それとも心を重視していますか」と続いたからだ。

心と関係のない人間の活動などないし、心と切り離された体もない。
これから行っていく動画等の収録においても、オンライン配信という形態上、理論的な話と実技が“分かれて見える”わけだが、その根底に常に流れ失われることがない何かを、如何にお伝えできるかにかかっていると思っている。
なので本日から、スタッフの方の前でマントラを唱えてから始めようかと考えているところ。皆様にはドン引きされるかもしれないが、マントラを支える思想なくして私の仕事などないのだから。

いつどこでなにをしていても、絶対者ブラフマンと繋がっていることができ、そのことをもって人の役に立てますように(それこそがヨーガだから)。小さな個としての私を道具として、人のための大きな仕事がなされますように。


№411 もらったり、受けたり

「人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体と区別のないものであると理解している。この理解は無明(無知)に由来している。その理解があるかぎり、行為を行えという聖典の命令は有効である」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 16-21

 

 

先日とても不思議なご縁で、我が師匠(ヨーガ)の木村慧心師のご本の挿絵を描かれたという方と出会うことができた。「魂の科学」、初版は昭和60年。

この本は、慧心師の師であるスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師の著作。
インドにおいて、グル(導師)の中の最高のグルと呼ばれていたラージャ・ヨーガ大師。

10代で出家後、八十四年間にわたりヒマラヤ山中でヨーガを行じ続け、悟りの境地に達し最高の智慧を得る。
多数の著書の内、邦訳は、本書と、『実践・ヨーガ大全』とがある。

大師様は1985年4月23日午後7時半、大涅槃に入る。御歳99歳。

 

ヨーガでは人間を五層構造で捉える「人間五蔵説」というものがあるが、この本にはなんと、この層構造を大師様が内的な目でご覧になられた図が示されているのである。
しっかり修行すれば必ず見えるようになるのだよ、と大師様は書籍を通じて励ましてくださるが、以前に比べて多少感覚が鋭敏になったくらいのことで、微細な内的器官の霊視にまではまるで至らない。
人間諦めなければ何事もなると思うので、死ぬまでにせめて生気鞘の霊視ぐらいは出来るようになるといいのになと願う。

ということで、この内的な(霊視による)挿絵を描いた人と出会ったのだった。
挿絵を依頼されるまでに至る過程がとても不思議で、若い頃のお師匠様のエピソードなども伺いながらヨーガの深遠さに改めて触れた心地がした。

ともあれ挿絵があっても摩訶不思議な世界なのに、絵がなかったらますます私たち凡人は途方に暮れただろうと思うので、この方に心から感謝である。

さて、この方がとても興味深い実験を体験させて下さった。
現代の人間は電気製品に囲まれて、大地から切り離されて生きているため、からだのなかに電気が溜まっているという。なので、裸足で土の上に立ったりするアーシングが健康にとって非常に重要なわけだが、電磁波と言えど人によって受ける影響がまったく違うということを体感させてもらった。

数値や単位など難しいことはわからず(覚えておらず)恐縮なのだが、裸足で道場の床を走り回っている娘は非常に低い。古い日本家屋(庭付)に住み、ヨーガや茶道をしている私もかなり低い方。ビルの4階に起居するレイキ・マスターはかなり高い、という感じである。

 

電磁波対策グッズやアーシンググッズなども売られているので、そういうものも活用すればいいのかもしれないが、最も大事なのは「自分は影響なんて受けないもんね!」という心持ちだと言うではないか。

腹の底から声を出すとか、悪い言葉を発しない、聴かない、ということも想像以上に重要である。たぶんあなたが思っている以上に。
悪口を言われると身体機能は不安定化(バランスが取れなくなる)し、力が入らなくなる(同じ重量のものの、主観的に感じる重さの程度が明らかに変わる)。体内の水の分子が関係しているということだったが、難しいことは知らなくてもいい。

自分にとってまずい状況にあるということを感じ取る感性がありさえすればいいと思う。

 

ヨーガ教室でポーズを修正されたり、身体が固いと注意を受けたりするという話を聴くことがあるが、そういうアプローチは間違いなく暴力である。
生徒さんに対して、この瞬間お会いしていなくても、常に愛の心で思いを向けたいという気持ちがますます強くなった。

良い氣は頂いて、悪い気は拒否する、という気持ちを改めて確かにして欲しい。
自分は大丈夫、という思いから、健やかさは生まれくるから。

 

 

№410 呼吸は鼻で

「正しい知識根拠によると、外界の地は身体を構成している地と同じである。外界の水などの諸元素もまた、すべて身体を構成している元素と同じであると知られるべきである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-2

 

 

今日は呼吸の話を。
深呼吸をしてはいけないと知っていただろうか?

「深呼吸して!」とはよく聞くアドバイスである。
ヨーガを行ったことがある方なら、そうそう簡単に深呼吸などできないことがわかるだろう。

息を深く吸えば同じだけ深く吐くことになるので、二酸化炭素を失い過ぎてしまい、血液中から酸素が放出されなくなる。結果的に組織では酸素が欠乏し、ますます苦しくなってしまうのである。
深呼吸の代わりに、鼻呼吸を意識的に行おう。

 

さて、あなたは呼吸をどこでしているだろう。鼻だろうか、口だろうか?

あなたの鼻はエアコンのようである。
左右の鼻腔にある多孔質の骨が空気を攪拌し、細い流れにして鼻の奥にある小さな通り道に送る。
この通り道は粘液をつくる粘膜によって覆われていて、空気の湿度と温度を調節し、さらにごみを取り除くための線毛が生えている。

鼻腔でやっているのは空気の調節だけではない。
空気抵抗を生じさせることで、より効率よく血液に酸素を送り届けている。

鼻呼吸は、ホースにノズルをつけて水をまくようなもの。
蛇口から出る水の量は同じでも、圧力によって水を速く、庭の遠くにまで飛ばすことができる。
鼻は酸素を肺の底にまで送り込むのだ。

実験してみよう。
呼吸を二回してみて欲しい。一回は鼻から、もう一回は口で。
どちらも同じくらいの量を取り込むつもりで。
そして身体の反応の違いを感じてみて欲しい。

 

鼻呼吸では横隔膜と下部肋骨が連動して動き、空気を肺の下側まで送り込むことができるため、酸素吸収が最も効率よく行われる。
口呼吸の場合、胸の上部が使われて、空気は肺の上部に入っていく。

胸でする呼吸が極端になると、鎖骨や肩が持ち上がり、余計な筋力を使うため、心拍数が上がってしまう。そうすると肺の中を流れる血液のスピードが速くなりすぎて、酸素の運搬は減ってしまう。
その結果、さらに早く、浅く、努力して呼吸をしなければならない悪循環となり、心臓への負担も増す。

胸の上部でする呼吸は、緊急事態に対処する交感神経系と関係がある。
交感神経系は、アドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンを血流に放出し、からだが活動するための準備を行うが、この反応が実際の危険に対処するものであって、活動によりホルモンを使い切っているのでなければ健全なものとは言えない。

 

鼻呼吸だと自然と呼吸が遅くなる。
鼻から吐くと、肺での酸素交換率が高まる。また、鼻呼吸には副交感神経との関係もある。この神経は一般に身体の損傷を修復するためのものだ。

健康面でのメリットに加えて、鼻呼吸は姿勢もよくしてくれる。
腹部のサポートが正常だと、鼻からの呼吸で胸郭下部が広がる。それによって胴体が伸びて、下部脊椎にかかっている圧力が減る。

 

いつも口で呼吸していると、健康的な呼吸がうまいかない。
慢性的な鼻詰まりがある場合は、ヨーガのマントラや調気法、浄化法などが有効だ。
たとえ時間がかかったとしても鼻呼吸の習慣を取り戻して欲しい。