蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№409 動いてこそわかる

「地で始まり内我で終わる個人存在の構成要素の中で、先行の構成要素が棄てられるにつれ、後行の構成要素がより微細であり、より遍満していると知られるべきである。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-1

 


人間の中には、「ボディ」「マインド」「スピリット」「シャドー」という主要な四つの領域が存在しており、私たちが真に包括的な治癒と成長を実現するためには、それらのすべての領域の実践に同時並行的に取り組むことが必須となる――

これは、2010年5月に刊行された「実践 インテグラル・ライフ -自己成長の設計図」のあとがきの部分である。
春秋社から出されたこの本は長く絶版となっていて、Amazonの中古本には39620円という価格がついているが、今月末出版社を変え復刊となる。

以前の書籍が出版された直後に、この本をサイコセラピストの先生からご紹介頂いた。

早速購入して読み、あとがきを読んで翻訳者である鈴木規夫さんにコーチングをお願いしたのは2010年7月のことだった。
鈴木先生とのお付き合いももう10年にもなる。非常に感慨深い。
当時の自分に、よくぞ行動した!と言ってやりたい。

人生の中で、頭頂部に雷が落ちたような気分にさせられた本が数冊ある。
この本は間違いなくその1冊であり、ずっと「インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)」としてのヨーガを考えてきたつもりだ。

人は単純な存在ではない。
ヨーガでは人を5層構造で考えているし、ILPでは4つのコア・モジュールで捉える。

ヨーガでアサナ(座法)と言われる体操を行うとき、肉体のみの側面で判断してしまう人が多いわけだが(もちろんはじめはそれで十分)、本来このアプローチは肉体に動き・形という負荷を付与することによって、乱れる呼吸、心、記憶、信念、自己イメージを見つめ直すためにある。

「今、こんなふうじゃなかったらいいのにな =現在が別のバージョンであって欲しい」、という思いこそが病なのだとヨーガでは教えている。
なかなか過激な視点だが、幸せや満足といったものは今この瞬間にしかありえないし、そもそも自分というものも今この瞬間にしか存在しえない。

今、私がどこにいても、なにをしていても、表面的に(さざなみのように)色んなことが浮かんできても、確かな“なにか”が自分を支えてくれていることを感じつつ、在る。
そういう存在の仕方が特別なことではないということに気付かせてくれるために、ヨーガの体操はあるのだと私は思ってきた。

どんなポーズでもいいので、試しにやってみて欲しい。
姿勢が変われば呼吸が変わり、心は否応なく動く。体に刻み付けられた過去の感情も、からだの動きに伴って動き出す。苦手な動きをすれば心は乱れ、どこかほかの場所に逃げ出そうとする。
今にい続けることはどれほど難しいか、こんなに分かりやすく教えてくれるものはない。
同時に、今にい続けるための練習としてこれ以上のものはないとも思っている。

伝統的ヨーガを理解するための、異なる視点をこの本は与えてくれた。
新しい本を手に、私はどんな10年を過ごすのだろうか。

 

 

№408 伝授

 「人びとは原因と結果に執着していると考えて、私は人びとをその執着から自由にするために、各自の本性の真実の意味を理解させる原因となるこの対話を作った。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-5

 

 

昨日から二日間かけてレイキを伝授して頂いた。
私のマスターとなって下さったのは、日米両国を股にかけて活躍される女性経営者の方で、マスター資格も両国のものをお持ちである。

当然本業が他におありで、なぜこういったエネルギーワーク的なものに目を拓かれ、学び、人に伝授するまでに至ったのかについては、私などから又聞きしても面白くないのでここには書かない。

 

レイキとは、正しくは“靈氣”と書くそうだ。
ヨーガを行じる私たちにとってそれはプラーナのことなので、難なくその概念は受け容れられるのだが、私はヨーガに代わってレイキを教えるために指導者の方を求めていた訳ではない。
たまたまそういう流れになっただけの話である。実に自然に、導かれるようにして。

 

実際に勉強してみた印象は、受け手側(レイキ・ヒーリングを受ける側)にとっては「自分で何もしなくてもいいヨーガ」のようで、これは実に簡潔で素晴らしいと思った。
なぜならば、ヨーガは受け手側にある程度意欲とか、元気がないと始められないものだからだ。

慢性疲労症候群の方に対するヨーガ療法指導の論文が高い評価を受けたことがあるが、動くことも辛い方の中に「それでもなにかやってみよう」という意思が生まれたからこそ、そこに実際の動きが生まれ、感覚や症状の変化が生じたのであって、「自分で動いてもいい」という意思がなければそもそもヨーガ指導は成立しない。

しかしレイキは、「動きたくないならそこにじっと寝ておいてください」ということが許されるのだ。それならお願いします、と思う人がいて当然である。

実体験としては、伝授の前に体験をした時からアジュナ・チャクラ(眉間・第三の眼とも)から脳の中央部に向けてスコンと穴が開いたような感覚があり、特にヨーガ行を行うとき風がスウスウ通り抜けるかのようになった。その後この感覚は、何もしていなくともほぼ常時生じるようになる。
全身に7つあるとされるチャクラのすべての意識化が容易になり、頭上にあるというエネルギーセンター(第8チャクラ)の存在を感じるようになった。
そして、何より食が軽くなった。
夏の暑さのせいかと思ってきたが、マスターによるとそうではないらしい。

レイキという手法であってもヨーガであっても、そこにいるわたしが何をする訳ではない。仕事をするのはあくまでも(私の表現でいうならば)絶対者ブラフマンである。
それに関してレイキははっきりと明言しており、あくまで媒体に徹し意図や我欲を持たぬようにと厳命する。

誰かに何かしてやろうと思ったら、終わりなのではないだろうか。
終わりというのは、そこにある精妙なエッセンスは失われてしまうだろうということ。

わたしが目の前の人に「旨い茶を点ててやろう」などと思えばすべては台無しである。
没我のなかで今自分にできることを尽くし、「行って、あの方をしあわせにしてきて」と願うだけである。
誰も人のことをしあわせにはできないとヨーガは教えているから、これは純粋な祈りである。

祈りでしかないことを真剣にやることしか私にはできないが、諦めて何もしないよりずっとましである。
そう思って、自分に許されたことをやっている。

 

 

№407 自己の絶対的基盤

「そしてつねに私は、一切の生類に対して平等な絶対者である。一切に遍満し、不壊であり、吉祥でもあり、中断することなく、分割されず、行為しない最高ブラフマンである。それゆえに、お前の努力から起きるいかなる結果も、私には属さない。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-3

 

 

生きていることに不安を抱くことがあるだろうか?
そう訊ねたら、多くの方はYesとお答えになるのだろう。

この世の多くの人が不安を感じて生きており、痛みを感じながら、眠れない夜を過ごしている。
同時に、毎日の生活の中で「だるい」という感覚をもっている人も多い。
いったいなぜ、内側から力は湧いてこなくなるのか?

 

ヨーガの表面的な行法に隠された効能とは、自分が一人そこにいて、理由もなく満たされることができるようになることであると思う。自家発電ができるようになり、そこで生まれたものを他者にも分け与えられる。

 

何かを食べることでも、誰かに支えられることでもない。
わたしが一人でいて、常に満ち足りているこの感覚を至福と呼ぶのだろう。
人間の最も奥にある生命原理は、常に喜びに充たされているところ。
そことのつながりを取り戻す。生まれてこの方一度も離れたことはないのだけれども、切り離されたと誤解していたことに気付く。それが統合であってyogaという語の本来意味するところだ。

ヨーガでは、幸福に関して厳密な定義がある。
”それ(幸福)には決して理由があってはならない。”
外的な要因をもってして、自分の幸福を図ることはできない。

誰かがそばにいてくれるから、社会的に安定しているから、金銭が十分にあるから、健康だから。すべて理由にならない。
何かを理由にしてあなたの幸せがあるとき、その理由を奪われたらあなたは不幸だということになる。

幸福というものはそんなに脆弱なものではない。
自分という存在の絶対的な基盤として、確かに揺るぎなく、常に、そこにあるものだ。
その絶対的基盤の上にいて、私たちは日々、笑ったり泣いたりしている。


基盤は自分の外にあるものではないし、誰かに貰えるものでもない。
お金でも買えない。

この基盤のことを、かつての師がひび割れた花瓶に例えていた。
自分自身の絶対的基盤を感じられないとき、水は漏れ続け、花は弱ってゆく。
それをなんとかしようと外的な満足や称賛を求めても、一時的なものに過ぎず、苦しみは終わりなく続くだけ。

そんな苦しい生き方はやめにしたい。
どうやって内側に目を向け、自分が完全なる存在であったことを思い出せるのか。
そのことを、日々の指導の中でなんとか伝えようとしている。

伝わったとき、人は、生きていることが楽だと感じられる瞬間に出会う。
それを少しずつやっていけばいい。
皆、必ず思い出すことができる。大丈夫。

 

№406 昨日の自分ではなく

「幻影からなる活動を捨て、非存在を求める努力を止めて、つねに安らぎに到れ。私はつねに最高ブラフマンであり、解脱したもののように、不生にして唯一者であり、二元を欠いているから。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 8-2

 

 

自分というものを感じる時、その肉体、意思、理智判断と、本当の自分というものをわけて感じ取っているだろうか?

すべてを一緒にして混然と受け止めている状態にあることを知り、一つひとつを識別して感じ取っていくことを「意識化」という。
すべてはここから始まる。

私たちはみな、自分よりも大きくてもっと神秘的な存在に、生きることの舵取りを明け渡さなくてはならない。
そのための方法を、かつて誰かが見出して、伝えた。それをインドではヨーガという言葉で表現した、ただそれだけのことだと思う。

実はどんな行為からでも、この明け渡しは起こると思う。
日常のささやかな動作のなかにも起こりうることを、茶聖・利休は見出したのではないか。
音楽も然り。そして人を愛することもそのひとつだろう。

感情は情動とも言われるように、肉体の状態と分かちがたく結びついている。
それでもそれは本来別のもので、注意深く扱えば分かれたものとして扱うことができる。

 

人の脳は、ほとんどが過去の産物と言える。
現時点までに学び、経験したすべてが記録として形成され、脳を成形しているからだ。
学ぶ、ということは脳内のニューロンが集結し数千のシナプスで結合したのち、複雑な3次元的ネットワークになること。


感情は、過去の経験の科学的残留物、あるいは科学的フィードバックと捉えるとよい。
出来事が醸す感情が強ければ強いほど、脳内にはくっきりとその印象が記されることになり、長期記憶が生まれる。

 

人の感覚器官は外界に向けられていて、良い悪いに関わりなく感情が高ぶるような出来事は脳内に記録されて記憶となる。

過去が実際に存在する唯一の場所は脳、そして体だと言っても構わないだろう。

同じことを繰り返し考えることで、私たちは脳のなかの同じ回路ばかりを発火させ、活性化させている。この時私たちは、脳に同じパターンを繰り返し習得させていることになる。

それが日常化したらどうなるだろうか?

朝目覚めた瞬間に、あなたは過去のあなたとして1日を始める。
私たちが抱える様々な問題も記憶に結び付いているから、不幸や徒労感、痛み、苛立ちと言った慣れ親しんだ感情が今日も、そして明日もまた生み出されるだろう。

馴染みのある感情が下す選択に振り回されていたら、私たちは確かにこの瞬間を生きていると言えるのだろうか?

あなたがあなたと思っているものは、本当はあなたではない。
身体はあなたではない。心はあなたではない。感情も、その判断もあなたではない。
あなたは呼吸を自分ではしていない。
生きることすらも自分ではしていない。

そういったことを感じている主体とは、いったいなんなのか。

あなたはその主体を見つけ出して、そこに安らいでいなければならない。
だから、肉体や感情や心のもつ大きな力を意識化し続けていく必要があるだろう。
つねにその平安に至る努力に留まり続けることを、私はヨーガという名でよぶことにしている。私がやっているのはただそれだけのことで、何も特別なことではない。

皆がやってきたことであり、常に、誰にでもひらかれている。
探し物はしないほうがいい。どこかに出かけても見つからないから。

あなたは最も大切ななにかを、自分のうちに見出していける。

 

 

№405 解放をめざしている

アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者である、から統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 8-3


先週、ある方に、8カ月ぶりにお目にかかることができた。
今年に入ってから大きな手術をふたつご経験なさった方である。

数年前に心臓周辺の病気に見舞われ、手術を視野に入れて治療中であったものの、主治医との関係性に大きな葛藤と不安を抱えておられた。

いつもここで書いている通り、クラスでただ体操だけをしても一時的な慰安しか得られないので、クラスの冒頭では必ず、今、もっとも心にかかっていることについてお尋ねする。

ヴェーダーンタ学派における、「解脱に至るための三つの学習段階」というものがある。
1)聴聞
2)思惟
3)瞑想

ヨーガ指導に当たる教師は、ヴェーダ聖典等から引用しながらその趣旨を繰り返し語って聞かせる。聴いた生徒は理論的に思索を深め、重要な問題に関して師と対論することによってその理解を強固なものにするという過程である。

「今日はどのような感じですか?」とまずお尋ねすることは、安全に実習を行うためでもあり、今日のこの場で、ヨーガの智慧のうちのどの部分をお話すれば助けになるのかを見極めるためでもある。

人間を層構造として考える「人間五蔵説」では、肉体は一番外側に位置しもっとも力の弱いものとして語られる。
心のなかで思う葛藤は、肉体よりも大きな力をもって肉体に間違いなく影響を与えていく。

もう過ぎ去った過去のこととして、笑って語れる昔ばなしとすることができたからここに書くけれども、当時その生徒さんが主治医にかけられていた言葉は想像するだけで痛みが伝わってくるものだった。

手術をやらなければ死んでしまう。
でも、やったとしてもどうなるかわからない(死ぬかもしれない)。
しかし、手術しないと絶対死ぬ。

と、こんなやり取りが毎回繰り広げられて、生徒さんは恐怖から決断ができない。
毎回決断ができないことが続くと、医師はもっと脅す(と、生徒さんには感じられる)。

どうしていいのかわからない、という葛藤の中にいつもあって、助けてくれるはずの医師を全く信用できない。たまりかねて、勇気をふり絞って転院を願い出ると、「どこでやっても一緒なのに、紹介状はかけない」と却下されたという。

治療という取り組みを行いながら、この堂々巡りはいったいなんだろう?
結論から言うと、私は知人医師を紹介して転院のお手伝いをした。
新しい医師とのやり取りや転院に関わる葛藤に際しても、緊張や不安を和らげられるように教室外でもお話をした。

最終的には「この病院で、この人に切ってもらえるなら」と言ってご自身で先生を探し出してきた。その後の展開は本当に素晴らしく、「この先生になら命を預けてもいい」という彼女に、新しい主治医は完璧に応えてくださった。まるで恋をしているかのように、その先生を受け容れているというそのことが、手術の予後に影響しないはずがないではないか。

この経験の中でヨーガが役に立てたのがどのような点かというと「人は、自分の人生の主人である」という考えであると思う。私たちは小さな自我などではなく、アートマンなのだから。
自分の人生の主人であることを選べば、おのずからその先の展開は違ってくる。
どう生きたいかを、あなたは自分で考えてもよい。
人の考えの下に隷属しなくてもよい。それこそが悟りだ。
そしてヨーガはあらゆる手法を使いつつ、常に隷属からの解放を目指す。

大手術を終えて戻ってきた彼女の笑顔がとても眩しく、このような経験にほんの少しでも関わることができたことを心から嬉しく思う。

きっとこのような思いをしている人が、たくさんいるのだろう。
医療という崇高な活動にも、光と闇がある。
医療現場で活動しているわけではないけれども、何らかの形で、彼女のような人とこれからも出会っていければいいと願う。

そしてこの国の医療が、ほんとうに人の心身を救ってくれるものであるように祈る。

 

 

 

№404 そのままで

「統覚機能にのぼった一切のものは、すべての場合に、つねに私によってみられる。それゆえに、私は最高ブラフマンである。私は全知者であり、一切に遍在している。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-1

昨日に引き続き内観の話を。
内観療法とは、母をはじめとして、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対するこれまで関わりについて「してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」の3つのテーマにそって思い出すことを、数日間かけて面接者と共に行う療法である。

7泊8日の集中内観を受けて起きた行動変容は、私の場合、結果的に抑圧へと向かったように思う。いったいなぜそんなことになったのか考えても答えは出ず、ずっと心にモヤモヤしたものを感じて続けていた。

 

数年経って出会った2冊の本が、ヒントを与えてくれた。
内観療法は、親に存分に愛を注いでもらった確信がある者以外には、逆効果になることがあるという。
例えば親に暴力を受けて育った人に、親にしてもらったことを思い出させるのはとても酷な話ではないか。多くの暴力の中にあったほんのわずかな優しさを見つけ出して感謝するのは必要な行為なのだろうか?

多くの人は、自分自身に対して罪悪感を持って生きているような気がする。
指導という名で、「やっぱり自分が悪いんだ」「自分が変わらなければならないんだ」という思いを強化するようなことは決してしたくない。

親もまた、心の傷を持ちながらも必死に生きてきたのだ。その傷を抱いたまま子育てをして、子供になにかを投影してしまう。そうやって哀しい経験が連鎖していく例は、枚挙にいとまがない。

親に対する愛を感じるのは、親の許しがたい行為に対して正当な怒りを感じた後であってもいい。自分を無力な存在だと感じながら、奥深い怒りを抱いたままでは、この世界にしっかりと立っていくことが怖くてたまらないと思う。

ヨーガの目指す境地を「随所に主たれ」と表現するけれども、この世界の主たるものとなりすべてを許し受け容れる道は長く、決して容易ではないから、まず個として尊重されることを求めて欲しい。

誰もあなたを傷つけることを許されない。
今も傷付いているならば、癒される必要がある。

人の変容や癒しは、安全だと感じられた時に生じる。
頭で考え、できたような気になることはあるだろうが、それは幻に過ぎない。

本当の意味でありのまま認められ、愛され、抱きしめられる経験を私たちは持っているだろうか。
何の努力も要らない、今のそのままの自分でいいのだと思える関係性が人を癒す。
家族でなくてもいい。もちろん家族であってもいい。

「自分は変わる必要がある」とあなたに迫ってくるような学びは理性には役に立つのかもしれないが、あなたが生きることそのものにとってはどうだろうか。

誰も、何も、変える必要がない。
人はおのずからゆっくりと花開くように変わっていく。
それを促せるのはたったひとり、自分自身だけ。
このままでいいと心の底から思えたとき、人は変容への道に誘われる。
そう信じている。

 

 

 

 

№403 見つめていなければ

「『これ』の部分が限定であるかぎりは、そのアートマンアートマン自体とは異なっている。限定が滅したとき、認識主体はそれとは独立して確立している。斑の牛の所有者は牛とは独立して確立しているように。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-5


今日は少しだけ遠出をする。
感染症のためにおやすみしているクラスのおひとりに、お会いするため。

大動脈解離から生還し、今年3月に無事手術を終えられた。
初めてお会いしたときのこの方の心のなかの葛藤は、恐ろしいほどのものだったと思う。
病気のこと、ご家族のこと、主治医のこと、手術のこと、心は千々に乱れておられた。
そこで私にできることは、たとえそれが一時的なことであっても、心身をゆるめるお手伝いをすること。

ヨーガの専門家としての勉強を始めた頃、教師は自己の内面を見つめている必要があると厳しく指導され、内観研修所での集中内観を強く勧められた。
20名ほどの同期生がいたけれども、3年間の教育期間中に内観を受けたのは私だけだったように思う。

内観法とは、実業家出身で浄土真宗の僧侶だった吉本伊信先生が、浄土真宗の修養法である「身調べ」をもとに考案したもの。国際的な評価も得られており、2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。

期間などは施設運営者によってかなり異なるようだが、やることは共通している。
母、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対するこれまで関わりについて、

・してもらったこと

・して返したこと

・迷惑をかけたこと

の3つのテーマにそって、繰り返し思い出す。

集中内観は7泊8日。
個室を与えられ、その個室の中でさらに衝立の影に隠れるように、約半畳のちいさな空間に座り毎日6時から21時まで内観し続ける。睡眠中も内観しながら休むような気持ちで、と言われる。
洗面やトイレ、入浴以外でその部屋から出ることはない。食事も運んでもらえる。当然、スマホや書籍などの持ち込みもできない。

内観終了まで面接者の先生以外誰とも会わず、たとえ面接者とでも自らの内観の内容を語る以外のことはしない。

なぜそこまでするか?
内観していると自分の心の汚泥が次から次に噴き出してくるからである。
特に3日目がきついと言われているが、私も同意する。
激しい感情の振れにより、ずっと涙を流しながら一晩中眠ることができなかった。

自分がここに存在していることが、辛く、恥ずかしくなるのである。
皆がそうであるらしく、期間中決して人の目に触れないように、研修所のスタッフ一同は細心の注意をもってこの取り組みを支える。

内観法に関して、現在の私は当時とは違った意見を持っているが、それについて今日は触れない。
内観は研修というような生半可なものでなく、修行とも言えるもの。
その修行の最後に、8日間にわたって私の真っ黒な思いを聞き続けて下さった先生が「心の力の強さはおそろしいほどだ」と呟かれた。
決して野放しにしておいてはいけないと。

 

どんな方法でもいいから、最終的には自分の心や思考をなんとかできなければ。

冒頭にお話した生徒さんは、多くの葛藤の中で「自分がどう生きたいのか」を真剣に考えられた。転院や手術の決心など、さまざまな場面で良く語り合えたと思っている。
私が単に体操だけをお教えしていたら、入院や手術の過程を通じてのお付き合いにはならなかっただろう。

あの内観を経験していなかったら、自分は今どんな指導をしていただろうか。