蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№414 教え、教えられる

アートマンは否定できないものであるから、『そうではない。そうではない』といって、アートマンを否定しないで残したのである。人は『私はこれではない。私はこれではない。』というような仕方でアートマンに到達する。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-1

 

 

オンラインによるセッションを続けてきた生徒さんと、この度はじめて実際にお目にかかることができた。

初めてご連絡を頂いたのが昨年の秋のこと。
お体に痛みがあるので指導を受けたいというご相談を頂き、私が上京する際にお目にかかることになっていた。会ったことも言葉を交わしたこともない私に対してご連絡下さるのは、勇気がお要りのことだったと思う。

約束の期日の少し前に、オフィスでお倒れになられたとご連絡があった。入院治療に入られたため、お会いすることが叶わなくなり、心的な面で少しでもお力になれたらと思いながら、彼女に向けてのメッセージとしてブログを綴ったことを思い出す。

その後大きな病気であることがわかり、数カ月後、ご自宅に戻られた頃にようやく、オンラインで初めてお話をさせて頂くことができた。それ以来、プライベートやグループのセッションを続け、あっという間に8カ月という時間が経った。

そうして冒頭に述べたように、先日、ようやく生身の彼女と会うことができたのだ。
想像よりも小さな人だった。
体格の良い(身長169㎝)の私の腕にすっぽりと包まれてしまうような彼女は、オンラインでも感じていたように本当に可愛らしいひとだった。

彼女自身が治癒へと向かう過程で、「私はよくなりたい、皆にも良くなって欲しい」という思いが同じ病と共に生きる方々へも向かうことは、自らのうちにある命そのもの(すべてのものと繋がっている部分)と共鳴をすることになると信じて、一緒にYouTubeによる情報発信をすることを促しそれを過去8回にわたり行ってきたのだが、この度はリアル対談の様子を収録することになっており、これにはスペシャルゲストとして理学療法士の大石先生も加わって下さった。 https://youtu.be/4dy7Ck37X2M 

 

和やかに語らった録音の直後、彼女が突然顔を覆って泣き出したものを、私は胸に抱きとめてしばらくそのままふたりでじっとしていた。この時のことを思うと、今も胸になにかが迫ってくる。

彼女には、蔭に陽に支えてくれる何人かの存在がいる。それは本当に素晴らしいことだけれども、その誰にもいえない何かがあって、それを私たちはこれまで時間をかけて分かち合ってきたのだ。

 

茶の師匠に「習うことと教えることは同じことの別の側面であるから、教える立場ならばこそ習い続けよ」というお言葉を頂いたことがある。
この言葉を授かったことを私はすっかり忘れていたが、それでもその教えを曲げることなく従い続け、いくつかの学びを継続してきている。私にとって芸事を学ぶこととヨーガを教える行為に、根本的な差はない(表面的な差はたくさんあるが、そんなことは些末なこと)。

同じように、生徒さんに向かい合いうとき、ときには教え、そして時に教えられる。どんな立ち位置であっても、人間の関わり合いは相補的に、そして共鳴し合っている。

YouTubeをお聴きになられるとわかるように、彼女は私を先生とは呼ばない。時に私が相談をすることもある。彼女の得意技で助けて貰ったこともある。私たちは彼女の病気を滅ぼそうとも思っていない。患部に名前をつけてチームの一員と思って活動している。

どっちがどっちなんてどうでもいい。その時元気な人が、元気のないひとを助けていけば良い。時にはその立場が入れ替わる。それでよい。

 

その晩、私たちはふたりで手をつないで休んだ。まるで子供のように。

もし会わないことによるレッスンに効能があるとしたら、会えないからこそ互いを求める気持ちが醸成されることなのかもしれない。そしてその思いが間違いなく人を変容させる。
その先に治癒もあるのかもしれない。

現在あるプロジェクトに関わらせて頂いているが、動画配信から始まるこの仕事の先にも、彼女のような人がいる気がしてならない。まだ会っていないその人のことを思いながら、この仕事をやり抜きたいと思う。