蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№415 どちらもまるごと

「前に生まれた理解を否定しなければ、その後に正しい思想は生まれない。見(=アートマン)は唯一であり、それだけで確立している。それは正しい知識根拠の結果であるから、否定されることはない。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-3

 

 ヨーガはこの世を「迷妄の世界」と考えている。

すべてが幻の実体のない世界。
私が私だと思っているからだも心も本質的には私ではないし、起きて見ていると思っているこの光景がそもそも夢かもしれないのだ(たぶん夢である)。
深い眠りの底で現前しているものだけが本当のリアルだ、という説に私も同意する。

私が私だと思っているものも、実は見たままには存在していない(だろう)。
量子論ではこの世がすべて素粒子でできあがっていて、量子的な目で見ると透き通ったつぶつぶがところどころ固まりあっているだけだという。

 

このかたまりを作る要因が、それぞれの存在のもつ波・波長である。
存在はそれぞれが固有の波のパターンを持ち、似たような波をもつ者同士が引き寄せあうことになるという。
日本語では「波長が合う」という表現があるが、まさにそのとおりなのだろう。

クリスタルボウルの置いてある部屋でマントラを唱えると、共鳴して発生した倍音が静かに鳴り出すことがあるし、箏が出してある部屋でなにかを落とすと弦が響くことがある。
触れてもいないものから音が生まれるこの現象を、存在の大部分が目に見えないものである私たちは自分なりに理解しておいたほうがよい。

 

今もよく憶えているが、非常に印象深い出来事が頻発した昨年11月、出張先でとても易しい量子物理学の本と出会った。数時間で読めるような超入門編のその本を読んで思った。
これは「バガヴァッド・ギーター」の教えとまったく同じではないかと。

 

人は世界が見せるものを自分の心のなかのフィルターに従って、ふたつの極のどちらかに分類したがる。本来分類などできないありのままの姿を、自分のなかで分断してしまうのだ。

K・ウィルバーも、著書の中でこのことについて美しい表現で語る。少し長くなるが、私はこの文章の、特に末尾の部分がとても好きなので引用してみたい。

「人生が常に対立を伴って現れることに、不思議な感じを抱いたことがあるだろうか。なぜあなたが価値あるものと見なすものは、必ず価値のないものとの対立のなかで現れるのだろうか。

空間と時間の次元は、必ず対立を伴う。

上/下、内側/外側、高い/低い、長い/短い、北/南、大/小、ここ/むこう、頂点/底辺、右/左。


わたしたちが、真剣になり、重要だと考えるのは、対立の一方の極である。

善対悪、生対死、快楽対苦痛、神対悪魔、自由対拘束。

わたしたちは、したがって社会的・文化的・美的な価値も常に対立の中でとらえている。

美対醜、成功対失敗、強いものと弱いもの、利口対愚か。 

 

私たちの世界は、巨大な対立の集合であるかのようである。

 

この事実はあまりにも常識的であり、わざわざ言う必要はないかもしれない。けれども考えてみればみるほど、このことは、つくづく奇妙なことに思えてくる。なぜなら、人間がその中で住んでいる自然は、対立の世界など知らないからである。

自然は、本当の蛙と偽の蛙などを生み出さない。道徳的な木と非道徳的な木も生み出さない。正しい海と間違った海などもない。倫理的な山、非倫理的な山もない。美しい生物と醜い生物も、少なくとも自然にとっては存在しない。自然は、あらゆる種類を生み出すだけで、満足しているのである。」    (K・ウィルバー「無境界」より)

 

 

バガヴァッド・ギーターの主要な教えを端的に示すと、「二極の対立を超越すること」、そして「行為の結果を放棄する」こと。

この双方のうちのどちらががいい!という思いも、ものごとがこんな風に展開して欲しい!という思いも超越して、ただ観ている者としての視点を確立していく。
それしか私たちが解放される道はないよ、というのがヨーガの教え。

どちらかを選べば、あなたも私もその片方の極に絡め取られていく。
どちらかだけが私を滋養し、片方は私を傷つけるなどという説は放棄してしまいたい。

すべてを丸ごと、私の世界のうちに飲み込んで、いつも安らいでいたい。