蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№413 みずからを投げ出す

「それゆえに無知を除去するために、輪廻を止息するために、そしてブラフマンの知識を確立するために、このウパニシャッドが開始されたのである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-25

 

 

2日間かけて動画の収録をさせて頂いた。
関わって下さる皆様方に心から感謝を申し上げたい。滞在中のお心づくしにより、私自身の内的な環境づくりがこの上ない状態で進み、2日目の収録ではこれまでにない感覚のなかで仕事をすることができた。

新しい経験というのは人に打撃を与え、過去の自分を壊してくれる。
ひとりで行をして様々な事を悩み考えても、それが外界でどのように変容するのかを見たいと思う。ヨーガ行者は一切外的な刺激に心を動かされないというから、私はヨーガ教師ではあっても行者にはなり切れないだろう。

これからこういった収録の作業が続いていくので、過去に作成してきた資料などを改めて見直していくことになる。

ヨーガは普遍的なものを含む古くからのものでありながら、いつまでも新しい。
そこに新しい知見をぶつけることで、私なりのヨーガというものを再構築していく作業が進んでいると感じる。

四大ヨーガのひとつに“バクティ” Bhakti-yoga”というものがある。
ヨーガ究極の目的である隷属からの解放(Moksha)のため、神に対する絶対的な信仰を実践する道であり、「愛の道」ともいわれる。

禅で象徴として用いられる“円相”(ただくるっ、と丸を書いただけの書)は、人の変容が上がる道と下がる道の双方で完成されることを示している。ウィルバーの表現で言えば上昇の道と下降の道。そのままである。
人は知識を得たり努力したりすることによって自らを変容させようとする。その道は間違いなく人を成長させてくれるのだが、限界がある。

人が成長するとき、脳のなかでも大きな変化が生まれていく。
一瞬一瞬考えることを通じても脳は変化しているのだが、真の意味で人が変容しようとするとき、そこに安心感がなければ脳も変化していかない。副交感神経優位の状態は主観的にはリラックスしている感覚があるが、このとき身体は自らを治癒・休息・成長のモードにシフトする。

努力によって懸命に登っていく道の先には、小さな自分を投げ出す愛の道がある。
ヨーガの戒律ニヤマの中にサント―シャ(知足 Santosha)があるが、こうでなければいいのにという思いではなく「これで十分に満たされている」という思いは間違いなくこの愛の道に繋がっていくだろう。

私たちが今の自分に満足を覚えたとき、生きていることの安心感と何か大きな存在とのつながりが生まれる。なにも努力は要らなかったし、変えるべきところもなかった。その愛の中で、たぶん小さな自己の概念は死ぬことになる。

バクティはヨーガの最高の、そして完成の段階だといわれる。
カルマ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガは、バクティ・ヨーガに至るための手段でしかないと。バクティ・ヨーガこそが全ヴェーダの目的であり至高のヨーガ、そして究極のゴールだという定義を、今に至ってようやく理解しつつある。


今こうして生きているということが愛の間違いのない証拠であるという思いで、次の呼吸を感じてみる。確かに私たちは守られ、満たされていると感じて欲しい。
呼吸は私たちに毎瞬与えられる祝福なのだから。

小難しいことを教えてきた日々の上にこの感覚があるのならば、私は下降の道に入れたのだろうか。怖がりな小さな自己は、だんだんと壊されていくのだろうか。
壊された先を見てみたい。

 

 

№412 根底に流れるもの

「無明がひとたび正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることができようか。なぜなら無明は無差別・絶対の内我(内在するアートマン)には存在しないからである。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 1-8


昨晩から出張のため首都圏に来ている。
出発前にオンラインでのレッスンをやったのだが、終了後すぐに出発なので本日は音声のみでご指導しますといいながら、声をかけているうちに自分がまったりしてきてしまい、結局のところ後半一緒になって体操をしていた。
こういうとき、ヨーガ・アーサナは実に気持ちいいことということを改めて、そして強く感じる。

 

さて、先月から始まった動画等収録のため、過去のクラスで使用してきた資料を加筆修正していたのだが、ヨーガ以外のアプローチから改めて教えられることが多い。
特にフェルデンクライス・メソッドロルフィング、脳の可塑性の研究などから新しい視点を与えられ、繰り返しこれらの関連書籍に目を通しているところだ。

指導の際、なるべくマットに横たわったポーズを選択し、立って行うような動きをほとんど行ってこなかった。
当初意図していたのは、ヨーガ療法の教室に参加されるのは何らかの症状にお悩みの方が多く、痛みや苦痛のために動作が制限されているということ、また、股関節等の動きが悪いためバランスを崩しやすいから安全性を重視してだったのだが、ロルフィングの本によると、横たわった姿勢で動きや呼吸の練習を行うことで重力の影響をほとんど受けずに実習が行えるため、高い効果が得られるということだった。

ロルフィングというアプローチは、浅学ながら呼吸と感覚を重視した動きで自らの心身を調えるもののようだが、本来のヨーガは「ヨーガ・スートラ」にはっきりと明記してあるように、無智から煩悩が生じ、煩悩が心を乱し、心が乱れれば呼吸も乱れ、最終的にこころやからだに病気が生じるということを熟知した上で体操を行うものなので、当然ながらロルフィングで意図しているものを含むわけだが、現在のヨーガ業界の主要なアプローチはそのようになっていないことをとても残念に思う。

先日初めてお会いする方に、「あなたのやっているヨーガはどんなヨーガですか?」と訊ねられた。この方は、状況をよくわかっておいでの方だと思った。その後に「みんなで一緒に体操をするのですか?それとも心を重視していますか」と続いたからだ。

心と関係のない人間の活動などないし、心と切り離された体もない。
これから行っていく動画等の収録においても、オンライン配信という形態上、理論的な話と実技が“分かれて見える”わけだが、その根底に常に流れ失われることがない何かを、如何にお伝えできるかにかかっていると思っている。
なので本日から、スタッフの方の前でマントラを唱えてから始めようかと考えているところ。皆様にはドン引きされるかもしれないが、マントラを支える思想なくして私の仕事などないのだから。

いつどこでなにをしていても、絶対者ブラフマンと繋がっていることができ、そのことをもって人の役に立てますように(それこそがヨーガだから)。小さな個としての私を道具として、人のための大きな仕事がなされますように。


№411 もらったり、受けたり

「人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体と区別のないものであると理解している。この理解は無明(無知)に由来している。その理解があるかぎり、行為を行えという聖典の命令は有効である」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 16-21

 

 

先日とても不思議なご縁で、我が師匠(ヨーガ)の木村慧心師のご本の挿絵を描かれたという方と出会うことができた。「魂の科学」、初版は昭和60年。

この本は、慧心師の師であるスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師の著作。
インドにおいて、グル(導師)の中の最高のグルと呼ばれていたラージャ・ヨーガ大師。

10代で出家後、八十四年間にわたりヒマラヤ山中でヨーガを行じ続け、悟りの境地に達し最高の智慧を得る。
多数の著書の内、邦訳は、本書と、『実践・ヨーガ大全』とがある。

大師様は1985年4月23日午後7時半、大涅槃に入る。御歳99歳。

 

ヨーガでは人間を五層構造で捉える「人間五蔵説」というものがあるが、この本にはなんと、この層構造を大師様が内的な目でご覧になられた図が示されているのである。
しっかり修行すれば必ず見えるようになるのだよ、と大師様は書籍を通じて励ましてくださるが、以前に比べて多少感覚が鋭敏になったくらいのことで、微細な内的器官の霊視にまではまるで至らない。
人間諦めなければ何事もなると思うので、死ぬまでにせめて生気鞘の霊視ぐらいは出来るようになるといいのになと願う。

ということで、この内的な(霊視による)挿絵を描いた人と出会ったのだった。
挿絵を依頼されるまでに至る過程がとても不思議で、若い頃のお師匠様のエピソードなども伺いながらヨーガの深遠さに改めて触れた心地がした。

ともあれ挿絵があっても摩訶不思議な世界なのに、絵がなかったらますます私たち凡人は途方に暮れただろうと思うので、この方に心から感謝である。

さて、この方がとても興味深い実験を体験させて下さった。
現代の人間は電気製品に囲まれて、大地から切り離されて生きているため、からだのなかに電気が溜まっているという。なので、裸足で土の上に立ったりするアーシングが健康にとって非常に重要なわけだが、電磁波と言えど人によって受ける影響がまったく違うということを体感させてもらった。

数値や単位など難しいことはわからず(覚えておらず)恐縮なのだが、裸足で道場の床を走り回っている娘は非常に低い。古い日本家屋(庭付)に住み、ヨーガや茶道をしている私もかなり低い方。ビルの4階に起居するレイキ・マスターはかなり高い、という感じである。

 

電磁波対策グッズやアーシンググッズなども売られているので、そういうものも活用すればいいのかもしれないが、最も大事なのは「自分は影響なんて受けないもんね!」という心持ちだと言うではないか。

腹の底から声を出すとか、悪い言葉を発しない、聴かない、ということも想像以上に重要である。たぶんあなたが思っている以上に。
悪口を言われると身体機能は不安定化(バランスが取れなくなる)し、力が入らなくなる(同じ重量のものの、主観的に感じる重さの程度が明らかに変わる)。体内の水の分子が関係しているということだったが、難しいことは知らなくてもいい。

自分にとってまずい状況にあるということを感じ取る感性がありさえすればいいと思う。

 

ヨーガ教室でポーズを修正されたり、身体が固いと注意を受けたりするという話を聴くことがあるが、そういうアプローチは間違いなく暴力である。
生徒さんに対して、この瞬間お会いしていなくても、常に愛の心で思いを向けたいという気持ちがますます強くなった。

良い氣は頂いて、悪い気は拒否する、という気持ちを改めて確かにして欲しい。
自分は大丈夫、という思いから、健やかさは生まれくるから。

 

 

№410 呼吸は鼻で

「正しい知識根拠によると、外界の地は身体を構成している地と同じである。外界の水などの諸元素もまた、すべて身体を構成している元素と同じであると知られるべきである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-2

 

 

今日は呼吸の話を。
深呼吸をしてはいけないと知っていただろうか?

「深呼吸して!」とはよく聞くアドバイスである。
ヨーガを行ったことがある方なら、そうそう簡単に深呼吸などできないことがわかるだろう。

息を深く吸えば同じだけ深く吐くことになるので、二酸化炭素を失い過ぎてしまい、血液中から酸素が放出されなくなる。結果的に組織では酸素が欠乏し、ますます苦しくなってしまうのである。
深呼吸の代わりに、鼻呼吸を意識的に行おう。

 

さて、あなたは呼吸をどこでしているだろう。鼻だろうか、口だろうか?

あなたの鼻はエアコンのようである。
左右の鼻腔にある多孔質の骨が空気を攪拌し、細い流れにして鼻の奥にある小さな通り道に送る。
この通り道は粘液をつくる粘膜によって覆われていて、空気の湿度と温度を調節し、さらにごみを取り除くための線毛が生えている。

鼻腔でやっているのは空気の調節だけではない。
空気抵抗を生じさせることで、より効率よく血液に酸素を送り届けている。

鼻呼吸は、ホースにノズルをつけて水をまくようなもの。
蛇口から出る水の量は同じでも、圧力によって水を速く、庭の遠くにまで飛ばすことができる。
鼻は酸素を肺の底にまで送り込むのだ。

実験してみよう。
呼吸を二回してみて欲しい。一回は鼻から、もう一回は口で。
どちらも同じくらいの量を取り込むつもりで。
そして身体の反応の違いを感じてみて欲しい。

 

鼻呼吸では横隔膜と下部肋骨が連動して動き、空気を肺の下側まで送り込むことができるため、酸素吸収が最も効率よく行われる。
口呼吸の場合、胸の上部が使われて、空気は肺の上部に入っていく。

胸でする呼吸が極端になると、鎖骨や肩が持ち上がり、余計な筋力を使うため、心拍数が上がってしまう。そうすると肺の中を流れる血液のスピードが速くなりすぎて、酸素の運搬は減ってしまう。
その結果、さらに早く、浅く、努力して呼吸をしなければならない悪循環となり、心臓への負担も増す。

胸の上部でする呼吸は、緊急事態に対処する交感神経系と関係がある。
交感神経系は、アドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンを血流に放出し、からだが活動するための準備を行うが、この反応が実際の危険に対処するものであって、活動によりホルモンを使い切っているのでなければ健全なものとは言えない。

 

鼻呼吸だと自然と呼吸が遅くなる。
鼻から吐くと、肺での酸素交換率が高まる。また、鼻呼吸には副交感神経との関係もある。この神経は一般に身体の損傷を修復するためのものだ。

健康面でのメリットに加えて、鼻呼吸は姿勢もよくしてくれる。
腹部のサポートが正常だと、鼻からの呼吸で胸郭下部が広がる。それによって胴体が伸びて、下部脊椎にかかっている圧力が減る。

 

いつも口で呼吸していると、健康的な呼吸がうまいかない。
慢性的な鼻詰まりがある場合は、ヨーガのマントラや調気法、浄化法などが有効だ。
たとえ時間がかかったとしても鼻呼吸の習慣を取り戻して欲しい。

 

 

№409 動いてこそわかる

「地で始まり内我で終わる個人存在の構成要素の中で、先行の構成要素が棄てられるにつれ、後行の構成要素がより微細であり、より遍満していると知られるべきである。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-1

 


人間の中には、「ボディ」「マインド」「スピリット」「シャドー」という主要な四つの領域が存在しており、私たちが真に包括的な治癒と成長を実現するためには、それらのすべての領域の実践に同時並行的に取り組むことが必須となる――

これは、2010年5月に刊行された「実践 インテグラル・ライフ -自己成長の設計図」のあとがきの部分である。
春秋社から出されたこの本は長く絶版となっていて、Amazonの中古本には39620円という価格がついているが、今月末出版社を変え復刊となる。

以前の書籍が出版された直後に、この本をサイコセラピストの先生からご紹介頂いた。

早速購入して読み、あとがきを読んで翻訳者である鈴木規夫さんにコーチングをお願いしたのは2010年7月のことだった。
鈴木先生とのお付き合いももう10年にもなる。非常に感慨深い。
当時の自分に、よくぞ行動した!と言ってやりたい。

人生の中で、頭頂部に雷が落ちたような気分にさせられた本が数冊ある。
この本は間違いなくその1冊であり、ずっと「インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)」としてのヨーガを考えてきたつもりだ。

人は単純な存在ではない。
ヨーガでは人を5層構造で考えているし、ILPでは4つのコア・モジュールで捉える。

ヨーガでアサナ(座法)と言われる体操を行うとき、肉体のみの側面で判断してしまう人が多いわけだが(もちろんはじめはそれで十分)、本来このアプローチは肉体に動き・形という負荷を付与することによって、乱れる呼吸、心、記憶、信念、自己イメージを見つめ直すためにある。

「今、こんなふうじゃなかったらいいのにな =現在が別のバージョンであって欲しい」、という思いこそが病なのだとヨーガでは教えている。
なかなか過激な視点だが、幸せや満足といったものは今この瞬間にしかありえないし、そもそも自分というものも今この瞬間にしか存在しえない。

今、私がどこにいても、なにをしていても、表面的に(さざなみのように)色んなことが浮かんできても、確かな“なにか”が自分を支えてくれていることを感じつつ、在る。
そういう存在の仕方が特別なことではないということに気付かせてくれるために、ヨーガの体操はあるのだと私は思ってきた。

どんなポーズでもいいので、試しにやってみて欲しい。
姿勢が変われば呼吸が変わり、心は否応なく動く。体に刻み付けられた過去の感情も、からだの動きに伴って動き出す。苦手な動きをすれば心は乱れ、どこかほかの場所に逃げ出そうとする。
今にい続けることはどれほど難しいか、こんなに分かりやすく教えてくれるものはない。
同時に、今にい続けるための練習としてこれ以上のものはないとも思っている。

伝統的ヨーガを理解するための、異なる視点をこの本は与えてくれた。
新しい本を手に、私はどんな10年を過ごすのだろうか。

 

 

№408 伝授

 「人びとは原因と結果に執着していると考えて、私は人びとをその執着から自由にするために、各自の本性の真実の意味を理解させる原因となるこの対話を作った。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-5

 

 

昨日から二日間かけてレイキを伝授して頂いた。
私のマスターとなって下さったのは、日米両国を股にかけて活躍される女性経営者の方で、マスター資格も両国のものをお持ちである。

当然本業が他におありで、なぜこういったエネルギーワーク的なものに目を拓かれ、学び、人に伝授するまでに至ったのかについては、私などから又聞きしても面白くないのでここには書かない。

 

レイキとは、正しくは“靈氣”と書くそうだ。
ヨーガを行じる私たちにとってそれはプラーナのことなので、難なくその概念は受け容れられるのだが、私はヨーガに代わってレイキを教えるために指導者の方を求めていた訳ではない。
たまたまそういう流れになっただけの話である。実に自然に、導かれるようにして。

 

実際に勉強してみた印象は、受け手側(レイキ・ヒーリングを受ける側)にとっては「自分で何もしなくてもいいヨーガ」のようで、これは実に簡潔で素晴らしいと思った。
なぜならば、ヨーガは受け手側にある程度意欲とか、元気がないと始められないものだからだ。

慢性疲労症候群の方に対するヨーガ療法指導の論文が高い評価を受けたことがあるが、動くことも辛い方の中に「それでもなにかやってみよう」という意思が生まれたからこそ、そこに実際の動きが生まれ、感覚や症状の変化が生じたのであって、「自分で動いてもいい」という意思がなければそもそもヨーガ指導は成立しない。

しかしレイキは、「動きたくないならそこにじっと寝ておいてください」ということが許されるのだ。それならお願いします、と思う人がいて当然である。

実体験としては、伝授の前に体験をした時からアジュナ・チャクラ(眉間・第三の眼とも)から脳の中央部に向けてスコンと穴が開いたような感覚があり、特にヨーガ行を行うとき風がスウスウ通り抜けるかのようになった。その後この感覚は、何もしていなくともほぼ常時生じるようになる。
全身に7つあるとされるチャクラのすべての意識化が容易になり、頭上にあるというエネルギーセンター(第8チャクラ)の存在を感じるようになった。
そして、何より食が軽くなった。
夏の暑さのせいかと思ってきたが、マスターによるとそうではないらしい。

レイキという手法であってもヨーガであっても、そこにいるわたしが何をする訳ではない。仕事をするのはあくまでも(私の表現でいうならば)絶対者ブラフマンである。
それに関してレイキははっきりと明言しており、あくまで媒体に徹し意図や我欲を持たぬようにと厳命する。

誰かに何かしてやろうと思ったら、終わりなのではないだろうか。
終わりというのは、そこにある精妙なエッセンスは失われてしまうだろうということ。

わたしが目の前の人に「旨い茶を点ててやろう」などと思えばすべては台無しである。
没我のなかで今自分にできることを尽くし、「行って、あの方をしあわせにしてきて」と願うだけである。
誰も人のことをしあわせにはできないとヨーガは教えているから、これは純粋な祈りである。

祈りでしかないことを真剣にやることしか私にはできないが、諦めて何もしないよりずっとましである。
そう思って、自分に許されたことをやっている。

 

 

№407 自己の絶対的基盤

「そしてつねに私は、一切の生類に対して平等な絶対者である。一切に遍満し、不壊であり、吉祥でもあり、中断することなく、分割されず、行為しない最高ブラフマンである。それゆえに、お前の努力から起きるいかなる結果も、私には属さない。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-3

 

 

生きていることに不安を抱くことがあるだろうか?
そう訊ねたら、多くの方はYesとお答えになるのだろう。

この世の多くの人が不安を感じて生きており、痛みを感じながら、眠れない夜を過ごしている。
同時に、毎日の生活の中で「だるい」という感覚をもっている人も多い。
いったいなぜ、内側から力は湧いてこなくなるのか?

 

ヨーガの表面的な行法に隠された効能とは、自分が一人そこにいて、理由もなく満たされることができるようになることであると思う。自家発電ができるようになり、そこで生まれたものを他者にも分け与えられる。

 

何かを食べることでも、誰かに支えられることでもない。
わたしが一人でいて、常に満ち足りているこの感覚を至福と呼ぶのだろう。
人間の最も奥にある生命原理は、常に喜びに充たされているところ。
そことのつながりを取り戻す。生まれてこの方一度も離れたことはないのだけれども、切り離されたと誤解していたことに気付く。それが統合であってyogaという語の本来意味するところだ。

ヨーガでは、幸福に関して厳密な定義がある。
”それ(幸福)には決して理由があってはならない。”
外的な要因をもってして、自分の幸福を図ることはできない。

誰かがそばにいてくれるから、社会的に安定しているから、金銭が十分にあるから、健康だから。すべて理由にならない。
何かを理由にしてあなたの幸せがあるとき、その理由を奪われたらあなたは不幸だということになる。

幸福というものはそんなに脆弱なものではない。
自分という存在の絶対的な基盤として、確かに揺るぎなく、常に、そこにあるものだ。
その絶対的基盤の上にいて、私たちは日々、笑ったり泣いたりしている。


基盤は自分の外にあるものではないし、誰かに貰えるものでもない。
お金でも買えない。

この基盤のことを、かつての師がひび割れた花瓶に例えていた。
自分自身の絶対的基盤を感じられないとき、水は漏れ続け、花は弱ってゆく。
それをなんとかしようと外的な満足や称賛を求めても、一時的なものに過ぎず、苦しみは終わりなく続くだけ。

そんな苦しい生き方はやめにしたい。
どうやって内側に目を向け、自分が完全なる存在であったことを思い出せるのか。
そのことを、日々の指導の中でなんとか伝えようとしている。

伝わったとき、人は、生きていることが楽だと感じられる瞬間に出会う。
それを少しずつやっていけばいい。
皆、必ず思い出すことができる。大丈夫。