蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№408 伝授

 「人びとは原因と結果に執着していると考えて、私は人びとをその執着から自由にするために、各自の本性の真実の意味を理解させる原因となるこの対話を作った。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-5

 

 

昨日から二日間かけてレイキを伝授して頂いた。
私のマスターとなって下さったのは、日米両国を股にかけて活躍される女性経営者の方で、マスター資格も両国のものをお持ちである。

当然本業が他におありで、なぜこういったエネルギーワーク的なものに目を拓かれ、学び、人に伝授するまでに至ったのかについては、私などから又聞きしても面白くないのでここには書かない。

 

レイキとは、正しくは“靈氣”と書くそうだ。
ヨーガを行じる私たちにとってそれはプラーナのことなので、難なくその概念は受け容れられるのだが、私はヨーガに代わってレイキを教えるために指導者の方を求めていた訳ではない。
たまたまそういう流れになっただけの話である。実に自然に、導かれるようにして。

 

実際に勉強してみた印象は、受け手側(レイキ・ヒーリングを受ける側)にとっては「自分で何もしなくてもいいヨーガ」のようで、これは実に簡潔で素晴らしいと思った。
なぜならば、ヨーガは受け手側にある程度意欲とか、元気がないと始められないものだからだ。

慢性疲労症候群の方に対するヨーガ療法指導の論文が高い評価を受けたことがあるが、動くことも辛い方の中に「それでもなにかやってみよう」という意思が生まれたからこそ、そこに実際の動きが生まれ、感覚や症状の変化が生じたのであって、「自分で動いてもいい」という意思がなければそもそもヨーガ指導は成立しない。

しかしレイキは、「動きたくないならそこにじっと寝ておいてください」ということが許されるのだ。それならお願いします、と思う人がいて当然である。

実体験としては、伝授の前に体験をした時からアジュナ・チャクラ(眉間・第三の眼とも)から脳の中央部に向けてスコンと穴が開いたような感覚があり、特にヨーガ行を行うとき風がスウスウ通り抜けるかのようになった。その後この感覚は、何もしていなくともほぼ常時生じるようになる。
全身に7つあるとされるチャクラのすべての意識化が容易になり、頭上にあるというエネルギーセンター(第8チャクラ)の存在を感じるようになった。
そして、何より食が軽くなった。
夏の暑さのせいかと思ってきたが、マスターによるとそうではないらしい。

レイキという手法であってもヨーガであっても、そこにいるわたしが何をする訳ではない。仕事をするのはあくまでも(私の表現でいうならば)絶対者ブラフマンである。
それに関してレイキははっきりと明言しており、あくまで媒体に徹し意図や我欲を持たぬようにと厳命する。

誰かに何かしてやろうと思ったら、終わりなのではないだろうか。
終わりというのは、そこにある精妙なエッセンスは失われてしまうだろうということ。

わたしが目の前の人に「旨い茶を点ててやろう」などと思えばすべては台無しである。
没我のなかで今自分にできることを尽くし、「行って、あの方をしあわせにしてきて」と願うだけである。
誰も人のことをしあわせにはできないとヨーガは教えているから、これは純粋な祈りである。

祈りでしかないことを真剣にやることしか私にはできないが、諦めて何もしないよりずっとましである。
そう思って、自分に許されたことをやっている。