蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№407 自己の絶対的基盤

「そしてつねに私は、一切の生類に対して平等な絶対者である。一切に遍満し、不壊であり、吉祥でもあり、中断することなく、分割されず、行為しない最高ブラフマンである。それゆえに、お前の努力から起きるいかなる結果も、私には属さない。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-3

 

 

生きていることに不安を抱くことがあるだろうか?
そう訊ねたら、多くの方はYesとお答えになるのだろう。

この世の多くの人が不安を感じて生きており、痛みを感じながら、眠れない夜を過ごしている。
同時に、毎日の生活の中で「だるい」という感覚をもっている人も多い。
いったいなぜ、内側から力は湧いてこなくなるのか?

 

ヨーガの表面的な行法に隠された効能とは、自分が一人そこにいて、理由もなく満たされることができるようになることであると思う。自家発電ができるようになり、そこで生まれたものを他者にも分け与えられる。

 

何かを食べることでも、誰かに支えられることでもない。
わたしが一人でいて、常に満ち足りているこの感覚を至福と呼ぶのだろう。
人間の最も奥にある生命原理は、常に喜びに充たされているところ。
そことのつながりを取り戻す。生まれてこの方一度も離れたことはないのだけれども、切り離されたと誤解していたことに気付く。それが統合であってyogaという語の本来意味するところだ。

ヨーガでは、幸福に関して厳密な定義がある。
”それ(幸福)には決して理由があってはならない。”
外的な要因をもってして、自分の幸福を図ることはできない。

誰かがそばにいてくれるから、社会的に安定しているから、金銭が十分にあるから、健康だから。すべて理由にならない。
何かを理由にしてあなたの幸せがあるとき、その理由を奪われたらあなたは不幸だということになる。

幸福というものはそんなに脆弱なものではない。
自分という存在の絶対的な基盤として、確かに揺るぎなく、常に、そこにあるものだ。
その絶対的基盤の上にいて、私たちは日々、笑ったり泣いたりしている。


基盤は自分の外にあるものではないし、誰かに貰えるものでもない。
お金でも買えない。

この基盤のことを、かつての師がひび割れた花瓶に例えていた。
自分自身の絶対的基盤を感じられないとき、水は漏れ続け、花は弱ってゆく。
それをなんとかしようと外的な満足や称賛を求めても、一時的なものに過ぎず、苦しみは終わりなく続くだけ。

そんな苦しい生き方はやめにしたい。
どうやって内側に目を向け、自分が完全なる存在であったことを思い出せるのか。
そのことを、日々の指導の中でなんとか伝えようとしている。

伝わったとき、人は、生きていることが楽だと感じられる瞬間に出会う。
それを少しずつやっていけばいい。
皆、必ず思い出すことができる。大丈夫。