蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№406 昨日の自分ではなく

「幻影からなる活動を捨て、非存在を求める努力を止めて、つねに安らぎに到れ。私はつねに最高ブラフマンであり、解脱したもののように、不生にして唯一者であり、二元を欠いているから。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 8-2

 

 

自分というものを感じる時、その肉体、意思、理智判断と、本当の自分というものをわけて感じ取っているだろうか?

すべてを一緒にして混然と受け止めている状態にあることを知り、一つひとつを識別して感じ取っていくことを「意識化」という。
すべてはここから始まる。

私たちはみな、自分よりも大きくてもっと神秘的な存在に、生きることの舵取りを明け渡さなくてはならない。
そのための方法を、かつて誰かが見出して、伝えた。それをインドではヨーガという言葉で表現した、ただそれだけのことだと思う。

実はどんな行為からでも、この明け渡しは起こると思う。
日常のささやかな動作のなかにも起こりうることを、茶聖・利休は見出したのではないか。
音楽も然り。そして人を愛することもそのひとつだろう。

感情は情動とも言われるように、肉体の状態と分かちがたく結びついている。
それでもそれは本来別のもので、注意深く扱えば分かれたものとして扱うことができる。

 

人の脳は、ほとんどが過去の産物と言える。
現時点までに学び、経験したすべてが記録として形成され、脳を成形しているからだ。
学ぶ、ということは脳内のニューロンが集結し数千のシナプスで結合したのち、複雑な3次元的ネットワークになること。


感情は、過去の経験の科学的残留物、あるいは科学的フィードバックと捉えるとよい。
出来事が醸す感情が強ければ強いほど、脳内にはくっきりとその印象が記されることになり、長期記憶が生まれる。

 

人の感覚器官は外界に向けられていて、良い悪いに関わりなく感情が高ぶるような出来事は脳内に記録されて記憶となる。

過去が実際に存在する唯一の場所は脳、そして体だと言っても構わないだろう。

同じことを繰り返し考えることで、私たちは脳のなかの同じ回路ばかりを発火させ、活性化させている。この時私たちは、脳に同じパターンを繰り返し習得させていることになる。

それが日常化したらどうなるだろうか?

朝目覚めた瞬間に、あなたは過去のあなたとして1日を始める。
私たちが抱える様々な問題も記憶に結び付いているから、不幸や徒労感、痛み、苛立ちと言った慣れ親しんだ感情が今日も、そして明日もまた生み出されるだろう。

馴染みのある感情が下す選択に振り回されていたら、私たちは確かにこの瞬間を生きていると言えるのだろうか?

あなたがあなたと思っているものは、本当はあなたではない。
身体はあなたではない。心はあなたではない。感情も、その判断もあなたではない。
あなたは呼吸を自分ではしていない。
生きることすらも自分ではしていない。

そういったことを感じている主体とは、いったいなんなのか。

あなたはその主体を見つけ出して、そこに安らいでいなければならない。
だから、肉体や感情や心のもつ大きな力を意識化し続けていく必要があるだろう。
つねにその平安に至る努力に留まり続けることを、私はヨーガという名でよぶことにしている。私がやっているのはただそれだけのことで、何も特別なことではない。

皆がやってきたことであり、常に、誰にでもひらかれている。
探し物はしないほうがいい。どこかに出かけても見つからないから。

あなたは最も大切ななにかを、自分のうちに見出していける。

 

 

№405 解放をめざしている

アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者である、から統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 8-3


先週、ある方に、8カ月ぶりにお目にかかることができた。
今年に入ってから大きな手術をふたつご経験なさった方である。

数年前に心臓周辺の病気に見舞われ、手術を視野に入れて治療中であったものの、主治医との関係性に大きな葛藤と不安を抱えておられた。

いつもここで書いている通り、クラスでただ体操だけをしても一時的な慰安しか得られないので、クラスの冒頭では必ず、今、もっとも心にかかっていることについてお尋ねする。

ヴェーダーンタ学派における、「解脱に至るための三つの学習段階」というものがある。
1)聴聞
2)思惟
3)瞑想

ヨーガ指導に当たる教師は、ヴェーダ聖典等から引用しながらその趣旨を繰り返し語って聞かせる。聴いた生徒は理論的に思索を深め、重要な問題に関して師と対論することによってその理解を強固なものにするという過程である。

「今日はどのような感じですか?」とまずお尋ねすることは、安全に実習を行うためでもあり、今日のこの場で、ヨーガの智慧のうちのどの部分をお話すれば助けになるのかを見極めるためでもある。

人間を層構造として考える「人間五蔵説」では、肉体は一番外側に位置しもっとも力の弱いものとして語られる。
心のなかで思う葛藤は、肉体よりも大きな力をもって肉体に間違いなく影響を与えていく。

もう過ぎ去った過去のこととして、笑って語れる昔ばなしとすることができたからここに書くけれども、当時その生徒さんが主治医にかけられていた言葉は想像するだけで痛みが伝わってくるものだった。

手術をやらなければ死んでしまう。
でも、やったとしてもどうなるかわからない(死ぬかもしれない)。
しかし、手術しないと絶対死ぬ。

と、こんなやり取りが毎回繰り広げられて、生徒さんは恐怖から決断ができない。
毎回決断ができないことが続くと、医師はもっと脅す(と、生徒さんには感じられる)。

どうしていいのかわからない、という葛藤の中にいつもあって、助けてくれるはずの医師を全く信用できない。たまりかねて、勇気をふり絞って転院を願い出ると、「どこでやっても一緒なのに、紹介状はかけない」と却下されたという。

治療という取り組みを行いながら、この堂々巡りはいったいなんだろう?
結論から言うと、私は知人医師を紹介して転院のお手伝いをした。
新しい医師とのやり取りや転院に関わる葛藤に際しても、緊張や不安を和らげられるように教室外でもお話をした。

最終的には「この病院で、この人に切ってもらえるなら」と言ってご自身で先生を探し出してきた。その後の展開は本当に素晴らしく、「この先生になら命を預けてもいい」という彼女に、新しい主治医は完璧に応えてくださった。まるで恋をしているかのように、その先生を受け容れているというそのことが、手術の予後に影響しないはずがないではないか。

この経験の中でヨーガが役に立てたのがどのような点かというと「人は、自分の人生の主人である」という考えであると思う。私たちは小さな自我などではなく、アートマンなのだから。
自分の人生の主人であることを選べば、おのずからその先の展開は違ってくる。
どう生きたいかを、あなたは自分で考えてもよい。
人の考えの下に隷属しなくてもよい。それこそが悟りだ。
そしてヨーガはあらゆる手法を使いつつ、常に隷属からの解放を目指す。

大手術を終えて戻ってきた彼女の笑顔がとても眩しく、このような経験にほんの少しでも関わることができたことを心から嬉しく思う。

きっとこのような思いをしている人が、たくさんいるのだろう。
医療という崇高な活動にも、光と闇がある。
医療現場で活動しているわけではないけれども、何らかの形で、彼女のような人とこれからも出会っていければいいと願う。

そしてこの国の医療が、ほんとうに人の心身を救ってくれるものであるように祈る。

 

 

 

№404 そのままで

「統覚機能にのぼった一切のものは、すべての場合に、つねに私によってみられる。それゆえに、私は最高ブラフマンである。私は全知者であり、一切に遍在している。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-1

昨日に引き続き内観の話を。
内観療法とは、母をはじめとして、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対するこれまで関わりについて「してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」の3つのテーマにそって思い出すことを、数日間かけて面接者と共に行う療法である。

7泊8日の集中内観を受けて起きた行動変容は、私の場合、結果的に抑圧へと向かったように思う。いったいなぜそんなことになったのか考えても答えは出ず、ずっと心にモヤモヤしたものを感じて続けていた。

 

数年経って出会った2冊の本が、ヒントを与えてくれた。
内観療法は、親に存分に愛を注いでもらった確信がある者以外には、逆効果になることがあるという。
例えば親に暴力を受けて育った人に、親にしてもらったことを思い出させるのはとても酷な話ではないか。多くの暴力の中にあったほんのわずかな優しさを見つけ出して感謝するのは必要な行為なのだろうか?

多くの人は、自分自身に対して罪悪感を持って生きているような気がする。
指導という名で、「やっぱり自分が悪いんだ」「自分が変わらなければならないんだ」という思いを強化するようなことは決してしたくない。

親もまた、心の傷を持ちながらも必死に生きてきたのだ。その傷を抱いたまま子育てをして、子供になにかを投影してしまう。そうやって哀しい経験が連鎖していく例は、枚挙にいとまがない。

親に対する愛を感じるのは、親の許しがたい行為に対して正当な怒りを感じた後であってもいい。自分を無力な存在だと感じながら、奥深い怒りを抱いたままでは、この世界にしっかりと立っていくことが怖くてたまらないと思う。

ヨーガの目指す境地を「随所に主たれ」と表現するけれども、この世界の主たるものとなりすべてを許し受け容れる道は長く、決して容易ではないから、まず個として尊重されることを求めて欲しい。

誰もあなたを傷つけることを許されない。
今も傷付いているならば、癒される必要がある。

人の変容や癒しは、安全だと感じられた時に生じる。
頭で考え、できたような気になることはあるだろうが、それは幻に過ぎない。

本当の意味でありのまま認められ、愛され、抱きしめられる経験を私たちは持っているだろうか。
何の努力も要らない、今のそのままの自分でいいのだと思える関係性が人を癒す。
家族でなくてもいい。もちろん家族であってもいい。

「自分は変わる必要がある」とあなたに迫ってくるような学びは理性には役に立つのかもしれないが、あなたが生きることそのものにとってはどうだろうか。

誰も、何も、変える必要がない。
人はおのずからゆっくりと花開くように変わっていく。
それを促せるのはたったひとり、自分自身だけ。
このままでいいと心の底から思えたとき、人は変容への道に誘われる。
そう信じている。

 

 

 

 

№403 見つめていなければ

「『これ』の部分が限定であるかぎりは、そのアートマンアートマン自体とは異なっている。限定が滅したとき、認識主体はそれとは独立して確立している。斑の牛の所有者は牛とは独立して確立しているように。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-5


今日は少しだけ遠出をする。
感染症のためにおやすみしているクラスのおひとりに、お会いするため。

大動脈解離から生還し、今年3月に無事手術を終えられた。
初めてお会いしたときのこの方の心のなかの葛藤は、恐ろしいほどのものだったと思う。
病気のこと、ご家族のこと、主治医のこと、手術のこと、心は千々に乱れておられた。
そこで私にできることは、たとえそれが一時的なことであっても、心身をゆるめるお手伝いをすること。

ヨーガの専門家としての勉強を始めた頃、教師は自己の内面を見つめている必要があると厳しく指導され、内観研修所での集中内観を強く勧められた。
20名ほどの同期生がいたけれども、3年間の教育期間中に内観を受けたのは私だけだったように思う。

内観法とは、実業家出身で浄土真宗の僧侶だった吉本伊信先生が、浄土真宗の修養法である「身調べ」をもとに考案したもの。国際的な評価も得られており、2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。

期間などは施設運営者によってかなり異なるようだが、やることは共通している。
母、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対するこれまで関わりについて、

・してもらったこと

・して返したこと

・迷惑をかけたこと

の3つのテーマにそって、繰り返し思い出す。

集中内観は7泊8日。
個室を与えられ、その個室の中でさらに衝立の影に隠れるように、約半畳のちいさな空間に座り毎日6時から21時まで内観し続ける。睡眠中も内観しながら休むような気持ちで、と言われる。
洗面やトイレ、入浴以外でその部屋から出ることはない。食事も運んでもらえる。当然、スマホや書籍などの持ち込みもできない。

内観終了まで面接者の先生以外誰とも会わず、たとえ面接者とでも自らの内観の内容を語る以外のことはしない。

なぜそこまでするか?
内観していると自分の心の汚泥が次から次に噴き出してくるからである。
特に3日目がきついと言われているが、私も同意する。
激しい感情の振れにより、ずっと涙を流しながら一晩中眠ることができなかった。

自分がここに存在していることが、辛く、恥ずかしくなるのである。
皆がそうであるらしく、期間中決して人の目に触れないように、研修所のスタッフ一同は細心の注意をもってこの取り組みを支える。

内観法に関して、現在の私は当時とは違った意見を持っているが、それについて今日は触れない。
内観は研修というような生半可なものでなく、修行とも言えるもの。
その修行の最後に、8日間にわたって私の真っ黒な思いを聞き続けて下さった先生が「心の力の強さはおそろしいほどだ」と呟かれた。
決して野放しにしておいてはいけないと。

 

どんな方法でもいいから、最終的には自分の心や思考をなんとかできなければ。

冒頭にお話した生徒さんは、多くの葛藤の中で「自分がどう生きたいのか」を真剣に考えられた。転院や手術の決心など、さまざまな場面で良く語り合えたと思っている。
私が単に体操だけをお教えしていたら、入院や手術の過程を通じてのお付き合いにはならなかっただろう。

あの内観を経験していなかったら、自分は今どんな指導をしていただろうか。

№402 魂の冴えるまで

 「この一切万物は、美しい装飾品のように、無明のためにアートマンに付託された限定である。それゆえにアートマンが知られたときには、一切万物は非存在となるであろう。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 6-3

 


暑さのせいか考え過ぎのせいか、図らずも断食修行のような日々になっている。
世の中ではファスティングという名称で断食も盛んに行われているらしいが、マインドフルネスの流行と似たものを感じる。
いったいそれは何のための取り組みなのか、という疑問。

食を節する取り組みは大昔から様々に行われてきた。
瞑想(黙想)と断食の文化のない宗教は無いとも聞いている。
では食を節することは、人間の心身のどの部分に対する取り組みなのだろうか?

人には3つの身体がある。
粗雑体、微細体、原因体という。

粗雑体・グロスボディは、粒子が粗く、重いエネルギーでできている。ゆえに手で触れることができ、同じく物でできている眼という器官で見ることができる。
そして多くの人は、人間存在をこの部分としてしか認識していない。
五蔵説では食物鞘と呼ばれるこの部分は、それ自体に生命をもたず、もっと強い、決して目には見えない力によって一時的な生命を預かっている。この力が去る時、肉体は土へと還ってゆく。

2つ目は微細な体。サトルボディ。
五蔵説における生気鞘、意思鞘、理知鞘に当たり、人間の心とその働きに当たるところ。
この先の2つの身体は、肉体の眼をもって見ることができない。なので、感じ取るしかない。鍼灸の治療などはこの微細体に対する代表的なアプローチである。自らの内側に対する”感覚“という目が養われていなければ、その効果を理解することはできないということになる。

3つ目は原因(元因)体。コーザルボディ。
生命の根本的な理由であるから「原因」と訳されている。
この部分をこそ、本当の私・真我という。
五蔵説では歓喜鞘という。
人一人ひとりの中心に存在し、肉体よりも大きなエネルギーをもつこのからだは、他のすべての存在と繋がっており、常に大きな至福に充たされているのだが、この身体とのつながりが希薄だと生きている喜びを感じられなくなってしまうだろう。

さて、断食はどの体に対するものかというと、微細体と原因体に対するものである。
ヨーガも同じく。
存在の中心に近い部分を癒そうとし、結果的に粗雑な体に大きな影響を与えることになる。
粗雑体そのものに、病や苦しみ根本原因は無いとヨーガでは考えている。

西洋医学にも「東北大学方式断食療法」というものがあるが、精神的な疾患に対する治療であり肉体に対するものではないとはっきり仰っていた。断食に取り組むのは一個人だが、家族をはじめとした関係性の病理が噴き出してくるため、その対応をも視野に入れているとのことだった。

ちなみに断食そのものよりも、断食から復する期間が非常に大事だそうである。
人が悟りに至るのは復食の際であることはお釈迦様も同じ。なんの修行の道にも入っていない人が食を節することを通じて悟りに近い経験をするというのは、実に凄いことと思い、長期にわたる断食という修行の難しさ、恐ろしさを感じる。


断食の経験がある方はわかるだろうが、食を節すると精神が澄みわたる。
だからこそ大事な儀式や行の際には、飲食を節する。

食べることも飲むことも、魂を養う行為。
何気なくものを食べず、全身全霊でそのものを味わう。口にしたものはいずれ必ず自分自身になっていくのだから。
目で見るもの、耳で聴くこと、肌で感じること、経験するすべてがあなたを養っており、いずれあなた自身になっていく。

どんな行為も魂を研ぎ澄ますために向き合えば、毎日はどのように変化するだろうか?


「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで 人恋はば人あやむるこころ」

歌人・塚本邦夫の、思い迫る名歌である。
今この一瞬しかないという気持ちで、目の前のものと向かい合って生きたい。
傷付いてもいい。きっと後悔しない。

№401 環境と内面と

アートマンは時間をもたず、場所をもたず、方角をもたず、原因をもたないから、つねにアートマンを瞑想するものは、決して時間にたよることはない。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ14-39


連日のうだるような暑さで、まったく食欲が無い。
アーユルヴェーダでは、季節ごとに、食欲にも体重にも多少の変化があると教えているので、これは当然のことともいえる。

人間の肉体は、体温を維持するために大変な労力を担っており、夏はその負担が減るため必要な栄養が減ると考えている。当然食欲は落ちるはずなのである。

夏の果物といえばスイカだが、これは水分補給に最高の食べ物である。召し上がられる時は岩塩と黒胡椒をかけて食べて欲しい。体が冷えすぎることを防いでくれる。

秋の声を聴くころから梨やイチジクなどの果物が出回り始めるが、これらの果物には緩下作用があり、夏の熱を体内から取り去り、秋に向けての身体づくりをしてくれる。
秋も深まると、芋や栗に代表される滋養溢れる食物が出回るが、これは冬の寒さ備えて脂肪を蓄えるため。


季節ごとに相応しいものをからだの状態に応じて食べることは、食養生の基本となる。

さて、本日は定期的に伺う鍼灸治療の日だったのだが、熱が体内に籠り脾が“虚して”(弱って)いるとのことだった。
漢方における「脾」の概念は西洋医学脾臓とは異なるもので、膵臓や胃の働きを示す。
即ち、食品という物を、自らの肉体の一部として変化させていくためのダイナミックな働きだ。この劇的な働きが、どれほどの大きなエネルギーを必要とするか考えたことがあるだろうか?

脾の働きが弱ってしまっているとき、多くの人は強い食欲を覚えることになる。
しかし体として消化や代謝の力が弱まっているときに食べ物を取り込んだら、消化ができないまま腸へ送られていくことになる。

アーユルヴェーダではこういった状態の食べ物を「未消化物」とよび、毒素(アーマ)の元となるとした。
未消化物は消化不良の状態で腸へ送られ、腐敗を引き起こし、痛みや腸内細菌叢の変化をもたらすものと思われる。かくいう私も、鍼灸の治療を求めた理由は原因不明の腹痛からだった。当時の私は、脾の異常から食欲が出ていることが感じ取れなかったのだ。

鍼灸治療を定期的に受けるようになって7年の月日が経ったが、ようやく脾が虚していることをそのまま「食べたくない」という感覚として受け取れるようになった。

ヨーガ・クラスに来る皆様には、鍼灸を勧めている。
施術して下さる先生に対する個人的な好みもあるだろうし、鍼を刺されることがどうしても苦手だという方もおいでになるが、ヨーガなどによって自分の力で微細なものを動かしていく感覚と、人の手をかりて初めて動き始める、自分のなかの微細な力の双方を体験しておくとよい

鍼灸治療で最も優れていると私が感じることは、定期的な施術を受けることで内的な要因が症状や感覚を生み出していることに自覚的になれる点だ。
とりわけ、心理面の変化が心身に強く影響を及ぼすことについて、理解が深まる。

脾は「思う」ことと対応している臓器である。
そう言われれば最近強い感情の動きを経験し、それにまつわることを色々と考え続けていたかも。
環境×内面が身体に現れて何かを教えてくれることを、いつも忘れないようにしたい。


№400 たすけをかりて

「それ故に一切の限定は、非アートマンであるから、捨てられてしまった手と同じである。したがって認識主体(アートマン)は一切の限定から自由である。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-2

 

 

先日、岡山県出向き、土壌や水中の常在菌を活性化させる触媒について勉強してきた。

この世界も、そして私たちも、その内外に存在する目に見えない生物たちと調和して生きるのが本来のかたちなのだけれども、その循環がなにかの理由で遮断されてしまったために、ところどころで流れが滞ってしまっている。
失われてしまった望ましい状態へ返るためには、なんらかの働きかけや触媒が必要となる。

この度拝見してきたものは、中国山地から取れる火山礫を焼成しセラミック加工を施した土。それを触媒として畑や川にまいたり流したりすると、既にその場所に存在していた常在菌の働きを助け、植物の成長を促進したり、汚れや悪臭を解消したりする効果があるということだ。

岡山の陶器である備前焼には水を浄化する作用があるというし、人間が電気を多く帯びているときに裸足で土の上に立つとそれだけで放電される。
土や水という当たり前のもののもつ目に見えない力を軽視してきたことと、人の生命力の働きの軽視は似通っているような気がした。

ヨーガも、かつて一度も知らなかった智慧を新たに獲得するのではない。
人という存在にそもそもの初めから備わっていたものを覆い隠している何かを取り除き、求めていたものが既にそこにあったことを思い出していく。

イスラムの詩人であり導師であるメヴラーナ・ジャラールッディーン・ルーミーをご存じだろうか。名前に冠される”メヴラーナ“という語はもともと学者や教師を指す呼称だったのだが、いつからか特に彼を指す場合にのみ使用されるようになった。

彼は美しくわかりやすい言葉で、この世の真理を人々に教えようとした。
また、愛のみがすべてを洗練させると説き、真理を自分の外側に求めることの愚かさを示した。

そとばかり見ていてもわからないことが多い。

例えば肩が痛い時に、多くの人はまるで痛む肩が悪いかのように扱ってしまう。
でも、目を閉じて静かな呼吸と共に、ほんのわずかな動きの中で、お互いがもっとも心地よくいられるところを探してあげるだけでよいのに。

心身のあらゆる部分が他のすべてと調和してそこに存在していて、ほんの少しその調和のバランスが崩れただけでも徴を与えてくれているのに、外に探し物をしていたらその声はあなたには届かないだろう。

あなたは愛にふさわしくありなさい
愛ほどに美しいものはないのだから
魂を洗練させなさい、野放しにせず   『四行詩集』29

スピリチュアリティは自分の外側には見つけられない。
イスラム預言者の伝承は「宗教は助言である」と教えているという。
外から聴こえてくる何かの助けをかりて、自分の内側にこそ大切なものを探し求めたい。

というようなことを、目に見えない菌の目に見える働きを見、味わいながら考えていた。