蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№326 全体性へと帰る

いま、白隠禅師にハマっている。
「軟蘇の法」というのをお聴きになったことがある方もおられると思うが、修行を志す者に心身のケア技法を書き残し、後世の修行僧を救ったと言われる。心身を置き去りにした修行の危険性を白隠禅師は伝えてくれたが、残念なことにあまり知られていないようだ。

 

ストレスによって心身が悪影響を受けることは広く知られている。
ある症状に悩んで通院したところ、どこも悪くないですよとか、ストレスじゃないですかと言われて立腹した経験のある方は多いのではないだろうか。私ももちろん言われたことがある。そのとき「じゃあストレスってなんやねん!」と思ったものだ。

ストレスとは、1936年に生理学者ハンス・セリエが定義した「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」のこと。
「ストレスを引き起こす外部環境からの刺激」をストレッサーという。

 

ストレッサーとして、4つの分類がある。

1.物理的ストレッサー:寒冷、騒音、放射線など

2.化学的ストレッサー酵素、薬物、化学物質など

3.生物的ストレッサー:炎症、感染、カビなど

4.心理的ストレッサー:怒り、緊張、不安、喪失など

 

ストレスのことをわかろうとすると、ホメオスタシスについて知っておかないといけない。そうでないと「非特異的反応」という言葉の意味がさっぱりわからない。内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことを、ホメオスタシスという。生物だけでなく、鉱物でもある働きだそうだ(ちょっとびっくり)。
生きものが生きものとして生存するために、一定の決まりがあって、その決まった状態に戻ろう、戻ろうとする働きのこと。この決まりの中で基本的に体は仕事をして、健康を保ってくれているわけだ。

ストレスがただそれだけで悪いわけではないのだけれど、それに対する反応として、本来あるべき”普通“の状態が崩れると、非特異的反応なる“普通”ではない反応が引き起こされる。これがストレス反応。

ストレス反応というのは、本来長く続くものではない、という想定の下に起こる。
あなたが家の中でいつもどおりに過ごしていたら、窓に何やらぶつかった音がしたのでふと目を上げると〇〇(*一番会いたくないいきものの名前をいれてください)がいて、こっちをジロリと見つめていた。
ギャー!と叫んであなたはその部屋を飛び出て、安全だと思える場所へ避難する。
隠れてゼエゼエハアハア言いながら、「なぜあんなものがあんなところに…」と考える余裕が生まれると、大きく息を吐きだせるようになる。しばらく間をおいて元の部屋に戻っても、そこには〇〇の気配もない。「ああ、良かった…」と感じながら、あなたは体からスーッと力が抜ける心地がする。

ストレスって本来そういうものであって、一時的であることを想定されて、ちょっと普通じゃないことに対処するようにできている。しばらく経つと、ストレス反応は止まり、楽な状態に戻るはず。この、ちょっと普通じゃないことというのは「自分が安心できないこと」と言いかえてもらってもよい。

なので、
①何に対してストレスを感じているのか
②その結果心身にどのような影響が出ているのか
③その影響を無くすためにはどうしたらいいのか
という3点を、まず考えなければならないことになる。
ここでいう②のことを「ストレス反応」という。みんな、②をどうしようかと悩まれているわけである。

ヨーガは体操だという残念なレッテルを貼られているので、ストレス反応としての痛みや症状をなんとかできるポーズありませんか?と聞かれるわけだが、本来ヨーガ的なアプローチが行っているのは、①に対してストレスを感じなくなる自分を育てるために、②のストレス反応は重要なきっかけを作ってくれたものと考える。
次に〇〇がやって来ても、こちらからジロリと睨み返せるようになるのが、ヨーガのめざすところ。

さて、ストレス反応が起きた時のからだはどうなっているか?
心臓はバクバクして、脈が速くなる。息は止まったり、浅く速くなる。走って逃げだすために血糖値は上がり、血圧が上がり、筋肉に血が流れ込む。消化活動は止まる。危機的状況なので、こんな時に、治癒とか消化・吸収とかできないことは想像できると思う。

これは「闘うか、逃げるか」の反応と言われることが多いけれど、「その場で凍り付く」という反応もある。これが一番怖い。トラウマとなって後々まで苦しめられてしまう。

このストレス反応と真逆なのが「リラクセーション反応」
ハーヴァード大学で、当時循環器内科医だったベンソン博士が行った研究をもとに名付けられた。
無症状なのに心臓病になってしまう高血圧症の患者さんに対する疑問から、ストレスと血圧上昇の関連について注目したベンソン博士は、超越瞑想の実践者との研究に踏み切る。1970年代のことで、異端な人たちと関わり合いになるのは抵抗があったし、研究は隠れてやったんだと言っておられた(時代は変わったなあ)。

ラクゼーションの練習をすると、ストレス反応を解除することができる。
でもおかしいとおもいませんか。
本来ストレス反応は一時的なものなのに、なぜわざわざリラクゼーションを練習しないといけないのか?

問題は、現代のストレスが「思考」に由来するということ。
頭のなかの仕事や上司は、いつでもどこでも一緒で離れることができない。コロナに関連した心配事は引きも切らない。一体この先どうなってしまうのか、考えても答えなどない。
このような思考の下に常時ストレス反応が起き続けているのだ。この結果、ストレス性疾患という病態が発現する。
感染症の影で、ストレス性疾患の種がまき続けれらていることを、私はとても危惧している。

ストレス対処のためには、なにか新しい活動をするだけでなく、その手法を用いて、頭のなかに浮かぶことの質を変え、最終的には思考事態が減っていくようにする必要がある。
この点を十分にわかっていないと、やったときに楽になるだけの依存的なものになる。

ベンソン博士の果たされた仕事の偉大さは、毎日20分やらないと、毎日のストレス反応の悪影響をなしにできませんよ、ということを明確にしたことだと思う。
でもここでもう一歩踏み込みたい。
実践を行っていくと、そもそもぐるぐる思考は浮かばなくなっていくし、自分にとってストレス反応を生じさせる生き方自体について改めて考えていくことになる。これが、全体性を目指す生き方だと思う。

ベンソン博士はすごいと思うけれど、「じゃあ毎日20分やれば、もっと働いても大丈夫だよね!」という方向性で使われているような気がしてならない。
それでは、自分のなかの何かが置き去りにされたままになるような気がする。
それが哀しい。