蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№292 慢性痛は治らないのか②

事故してけがをしたとか、転んで骨折したとかいう時には、即座に病院に駆け込んで医療技術によって助けてもらおう。
こういう待ったなし!のものに関しては、西洋医療は素晴らしい力を発揮してくれる。これまでに間違いなく多くの人々の命を救ってきた。 怪我や感染症の時に、心を落ち着けたりする必要はない。すぐに救急車を呼ぶか、病院に駆け込んで欲しい。 
 
慢性痛というのは、以下のように定義されているらしい。
『慢性疼痛とは,3カ月間を超えて持続もしくは再発する,または急性組織損傷の回復後1カ月を超えて持続する,または治癒に至らない病変に随伴する疼痛である。』
★ 痛みの持続期間が、3カ月間を超えている。
★良くなったと思ったら、また痛くなったりする。
こういった痛みに心当たりがある方。 あなたのその痛みを治せるのは、あなただけである。
 
 残念なことに、「この痛みはきっと治らない」「ずっと付き合っていくしかないんだろうな」と諦めてかかっている人が多いということ。
こういった考え方を信念として採用し続けている限り、その慢性痛は治らない。
手術でも注射でも、薬でも治らない。
鎮痛剤を使っていたら、ますます困ったことになる。 慢性的な痛みを止めるために鎮痛剤を使用すると、結果として血流が低下してますます悪くなってしまう。 
 
この痛みが治らないことに業を煮やして、腹が立つくらいになるとちょうど良いのではないかと思う。
「なんで病院に行っても治らないんじゃい!」
「ええい、自分で治してやるわ!」
という心持ちになってみたりすると、ふと、新しい情報や治癒に繋がる技術に出会えたりするような気がする。
 
ちなみに、これまでヨガ教室で腰痛を克服していかれた方々は、そんなに真面目な生徒さん達ではなかった。ただ、毎週一度のクラスに淡々と通い続けただけ。家で頑張って実習をしてくれるような人はほとんどいなかった。
 
では、実習を自宅でもやっていたら、もっと早く良くなったか?
答えはNOだと思っている。
この問いに対する答えがYESだと思う方は、ヨガを体操の側面だけで捉えている可能性がある。
 
教室では、うまく集中できるような状態になれるようお手伝いする。
これが教師の最も重要な仕事だ。
自分の肉体を意識化し、客観視できるようガイドする。呼吸に指示を与えて、神経の働きが変わるように導く。 来た時に痛んでいたととしても、痛くない状態を作り出し、「ああ、痛くない。気持ちいい。」という心持ちになってもらう。 
 
こういう状態になるのはなかなか難しい。
肉体に痛みがある場合は特に、意識が痛みに向き、体のその部分を何とかしてやりたい(取り去って捨ててしまいたい!)という思いが、自分自身を苛むことにもなるようだ。
 
なので、家で何とかしたいなら、
・単純な動作をゆっくり繰り返すこと
・動きに専念し意識を集中すること
・呼吸とゆっくりした動きを合わせてみること
この三つをお勧めする。
 
 こういった動きをヨーガでは Sukshma Vyayama(スークシュマ・ヴィヤヤーマ)という。 神経の働きを変えてくれる可能性を持つ動きだ。
 
次は、この動きについて書いてみようと思う。

№291 慢性痛は治らないのか①

とある新年の昼食会にお招き頂いた。 そこでお二人の「腰が痛い」話をお聞きした。 その場に、私はヨガ教師として参加している訳ではないので、ただ黙って伺った。 
 
一例目。30代前半の方。若い頃から腰痛持ち。動くだけで痛みがある。通院してブロック注射を始め、これを何度か繰り返す予定。それで良くならなかったら手術も検討。
二例目。40代の方。ずっと腰が悪い。解消のために、運動などもたまに気が向いたらやってみることもあるが、効かない。なかなか良くならず辛い思いをしている。 
 
さて。
皆さんは、 慢性的な痛みは治らないと思っておられるだろうか?
 
教室にもたくさん、腰痛の方は来られる。 今、ここで取り上げる腰痛は、長く続く慢性的なものであって、骨折など原因がはっきりしているものは除く。ちなみに、医療チームの仲間である、理学療法士のO石先生によると、『手術では骨折やヘルニアなど原因がはっきりしている以外の痛みは軽くなりませんよ』とのこと。
 
この世に腰痛持ちの方はとても多いし、ヨガを始める前の私もそうだった。 
 
ヨガで腰痛は治るか?
数カ月以上、実習を継続した場合、腰痛が解消しなかった方に出会ったことがない。痛みが解消するまでの期間は、それぞれの症状による。
 
私のことを体操の先生だと思っている人がいるのだが、それは違う(この文章を読んで下さっているほとんどの方は、重々承知だと思う)。
 
ヨガの先生は、内面を通じて、”肉体という粗雑なもの”に働きかけることができると信じているが、粗雑なもの(肉体)のためにヨガをしている訳ではない。なので、解剖学などはサラッとしか学んでいない。
 
腰痛の原因は何だろうということについての私の考えは、以下のようなものになる。
 
①腰痛の人は腰・お尻・脚の力(必要な筋力等)が落ちている
②腰痛の人は、お腹を使った深い呼吸が苦手、もしくはできていない
③腰痛の人は、正しい腰の位置についてわかっていない
④そのため、体の使い方が間違っている
⑤腰痛の人のなかには、体のある部分の筋肉だけが、強張っている場合がある
⑥「腰痛は怒りである」という見方がある。何かに対して強いこだわりを持っている可能性がある。
⑦腰痛の方は、小さな筋群の力が低下しているため、バランスを取るのが苦手だったりする。
まあ、ざっとこんなところだろうか。 
 
では、腰痛は誰が直してくれますか?
 
腰痛が治らない方に共通しているのは、ここの部分だと思う。 
ハッキリ言いましょう。
お医者さんは腰痛を治してくれません。
 
あなたの腰痛を治せるのは、あなただけです。 
ということで、長くなるなので、今日はここまで。
明日以降に続く。 

№290

1月11日
今日は初釜だった。

床の間の掛物は、表千家十三代・即中斎宗匠の筆による「松樹千歳翠(しょうじゅ せんざいのみどり)」。如何にも目出度い!というお軸だ。
茶席では、季節やその会の目的に応じて道具が選ばれるわけだが、お正月にこのお軸を見ると、元旦の書店で筝曲・「春の海」を聴いたのと同じように、新春感がグッと胸に湧き上がってくる。

この即中斎宗匠という方は、実に良い字を書かれる。味のあるというか、この方の字を好まれる方は多いけれども、私も間違いなくその一人。
すべての宗匠が書き残された字を見ることができるのだが、五代・随流斎宗匠の字も美しい。ちなみに、表千家のお家元宗匠は、当代の猶有斎宗匠で十五代目。

茶席では、掛け軸というのは人格として扱われるので、皆がその前で一礼する。
今日の場合だと、そこに即中斎宗匠もご一緒して下さっているよ、ということになる。
こういう茶の感覚が私はとても好きで、軸を拝見するだけでジーンと感動したりする。

さて、お抹茶をすくって、茶碗に入れるための道具である“茶杓”も、同じく即中斎宗匠のお手作りの品。「聴流(ちょうりゅう)」というお銘。どんな意味があるかは、用いる人が考えて使用するのだが、私としては、流れに身を委ねつつも、その流れの静かな音に耳を澄ませている情景が心に浮かんだ。

本物を見て、触れることなくして目は養われないから、と師匠はいつも仰る。

美術館などにも行くけれども、ガラス越しに拝見することと、実際に道具として使われているものに触れることは、全く違った体験である。自分のなかに残る印象も異なる。
触れる、というのは実に豊かな経験だと思う。

茶道具は長生きである。
うんと古いものが大事にされて、今に伝わる。
我が家にある僅かな道具も、間違いなく私よりも長生きをする。
そのことを考えるとなんだか可笑しくなる。自分の生というものを、突き放して笑ってしまえるような気になるからだ。そして同時に、こういう芸の文化にのぼせることのできる平安を、身に沁みて感じたりする。

№289 影の仕事

明日は初釜である。
初釜というのは、今年の稽古始だと思って頂けばよい。
先生が今年初めて、弟子のために釜を掛け、茶を点てて下さる日である。

普段の稽古で、先生の点てて下さった茶を頂く機会はない。
1年で唯一、この日だけである。なので、弟子にとっては特別な日だ。

亭主との問答を担当する筆頭の客を「正客(しょうきゃく)」というが、このお役目は大変に緊張をするもの。私も数年前に、一度経験をさせて頂いた。

何しろ他の客は、聞きたいことがあっても、直接聞くことが許されていない。
そこのところをよく正客は弁えて、掛け軸のこと、花のこと、道具のこと、お茶のこと、お菓子のことなどなどについてお尋ねしつつ、亭主や他のお客と阿吽の呼吸で、その日のお席を盛り上げ、取り仕切っていかねばならない。

とはいえ、そんな力量がすぐにつくものではないので、こういった機会を通じて練習をさせて頂くということ。明日の正客さんは、今頃ドキドキしておられることだろう。

さて、通常であれば客として招かれ、先生がお手ずから点てて下さったお茶を頂くのだが、私は昨年から、お願いして裏方での仕事を手伝わせて頂いている。
表の華やかなお席でお茶を頂いているだけでは、先生のお心づくしは理解しきれないのだということが、この”影の仕事”を通じて理解できた。

1年で唯一の特別な席なので、先生も心を込めて大切な道具を披露して下さる。
影の仕事をお手伝いさせて頂くということは、こういった「お宝」を扱うということでもある。万が一何かがあっても、とても弁償などできるものではないから、一つひとつの所作を丁寧に、余裕を持って行うということが大切だ。

昨日のブログで、「動作を流して行わない」ということについて書いたが、こういった影の仕事の経験が、その気付きを得るために寄与してくれているとつくづく思う。

昨年、先生はお気遣い下さって、お席の最後に「裏方で励んでくれた」と私の紹介をして下さったが、本来のお席であればこういうことは無い。
芸にまつわること以外でも、影で懸命に取り組みつつ決して誰にも気付かれず、しかし誰かの幸福や満足の役に立てるような、そんな仕事がしたいものだと思う。

№288 物事を丁寧に行う

ゼミナールの補助教材録音を、少しずつ聴いている。
何かをしながら聴くと効率よく聴けそうなのだが、この「効率よく」というのが曲者である。

何かをしながら、別の何かをする、ということがそもそも私は苦手である。
昔は、そういうことは可能だと思っていたのだが、ヨーガを学んだ今となっては、そういうマルチタスク的なことは難しいと思う。

以前はできていたように感じるだけで、実はそれは全くの誤解であった。
単に、雑であっただけのような気がする。

茶道のお稽古をさせて頂いているが、「なんとなく流す」癖がなかなか抜けなかった。こういうことは、先生は気付いておられても、口に出して仰ったりはしないものだ。
そして何年も経ったある日、自分の粗雑な振る舞いに気付いてハッとし、そこで初めて赤面するのだった。お稽古とはそういうことの繰り返しだ。

一例を挙げると、膝の前にある茶碗を取り上げ、自分の方に正面を向けたい、という場合。普通の生活の中では、取り上げつつ、何気なく茶碗を回せばよい。手間も少ない。
しかし、それをあえてしない。

一旦、茶碗をとり上げる、という行為に専心する。
近いところにあれば真横を取る。少し離れていれば手前を取り、膝上まで運んでくる。
ここでは、茶碗を膝上に移動させるだけである。
膝上で、茶碗を掌の上に乗せ、向きを変える。これは、向きを変えるためだけの行為。

言ってみればこれだけのことなのだが、以前はこの動作が、日常の中で流れるように行われていることを意識化できていなかった。

しかし、この一連の動作が、お客様の側からみて不自然であったらいけない。
心のなかでは一つひとつの動作に折り目をつけつつも、すべては滑らかに行われ、結果として点てられた茶は美味しいという境地に至るには、まだまだ時間を要するような気がする。

いつか必ず、私たちは死んでいく。
それは明日かもしれないし、50年後かもしれない。
もっともっと、と何かを「多く」求めながら生きることはしたくないなあと思う。
この一瞬のひと手間に、心を込める生き方が少しずつ上手になればよい。
年を重ねるということが、一見どうでも良さそうなもののなかに価値を見出すこと、どうでもいいことなんてないんだと気付くことに、繋がって欲しいと思う。

そうなると、ゼミナールの教材録音も、パソコンの前に正座して聞く事になる。
なかなか進まない。
ま、それでもいいか。
いいってことにしよう。


№287 感情と内臓の関係

襖に、ガリガリと猫の爪痕が刻まれて、私の心は悲しみでいっぱいである…。


さて、漢方では「七情」ということを仰る。

腹に据えかねることがあると「肝」に影響が及び、目がずーんと重苦しくなったり、片目だけがおかしな瞬きを繰り返したりする。
ストレスが続くと「心」に来るらしく、夜休んでいる時に胸がギューッと締め付けられるようになることもある。

私は月に2-3度の鍼灸治療の際に、その時の先生の見立てや治療の結果と、前回からその時までの自分の気の動きや感情について、先生のお話を伺いながら改めて考察するようにしている。

この時に大事なのは、実際の生活の中で何があったか、ということよりも、私自身がそれに対してどのような評価を下したかの方が、心身に重大な影響を及ぼすということである。

例えば、現状は何も変わっていなくとも、希望を見出すに足る兆しのようなものを感じ取った場合、劇的に心身の状態が改善したりする。
また、肉体の状態と、内面の心の動きが恐ろしいほどリンクしているのだ。

当然なことなのだが、脈を見たり、舌を見たりの診立てで、それをズバリ言われてしまうと、やはり「すべて顔に書いてあるのだなあ」と空恐ろしくなったりするのだった。


さて、七情と内臓の関係について簡単に調べてみたので、ここに書いておこうと思う。

悲しみ・憂鬱 「肺」呼吸器に影響が及び、意気消沈する
怒 「肝」と深いつながり
驚 「腎」どうしていいかわからなくなる
恐  同じく「腎」 恐ろしさのあまり失禁することも
喜 「心」心気ゆるみ、集中できなくなる
思 「脾(胃腸)」考えすぎると、やる気が出ない、消化不振、消化不良


お世話になっている先生のご説明と多少異なる点もあるが、大筋では同じ。
ちなみに私は体質的に、「脾(胃腸)」に症状が出やすい。確かに考え込むタイプなので、ヨーガ(瞑想)には大いに救われている。

ここでこんなことについて書いてみたのは、先日も少し書いたが、腸の中の生体系が、感情によって荒らされてしまうということを改めて学んだからだ。

今日は、東京での指導準備のために、O石先生とオンラインセッションをしたのだが、「動きや呼吸に集中し、考えから離れる」というヨーガ実習の指示が、どれほど大きな恩恵をもたらすかわからないよね、という話になった。

幸せになりたい、と思いながら生きているのに、自分の心が自分の肉体に毒をまき散らすというような事態は誰しも避けたいものだ。

あれこれ資料を読んで、あれも大事、これも大事だ、と思う中で「あー、誰か頭のいい人が分かりやすくまとめてくんないかな~」と考えたりすることが最近多いのだが、ここは腹を括って、自分自身がまとめ、表現していかねばならないということなんだろうな。


№286 「ブッダ」再読

早朝、襖の破壊に高度な技術力を発揮する我が家の猫・あんこちゃん(3歳サビ猫)が、襖をカリカリと爪でひっかく音がしたため、飛び起きて襖をあけて睨み合う、ということが三度にわたって繰り返された。

年末にようやく、大穴を修繕したところなのでまたやられてはかなわん。
こちらのアンテナも活性化しているので「カリ…」という音で、覚醒する。
さすがに三度も起きると、夢は忘れてしまう。残念。
ちなみに、あんこちゃん対策に衝立のようなものは置いてあるのだが、あまり役に立っていない。

さて、今日は久々に手塚治虫の「ブッダ」を読んだ。

ヨーガの勉強をする過程で、「お釈迦様もヨーガをやっていた」ということを聞いた。
当時の修行と言えば、やはりヨーガだったのか。
がしかし、お釈迦様は、ヨーガという方法を途中で捨てたわけだ。

今回読んでいて、お釈迦様が、これまでの修行法に葛藤を覚え、歩む道を変更しようとする時、それまで所属していた集団の人たちに色んなことを言われてしまうことがとても辛く感じた。
自分自身が、同じように、既存の勉強法に対して変化を求めているからなのかもしれない。

この本には絶対者ブラフマンが登場して、お釈迦様に色々と智慧を授けてくれるので、ヨーガを学んで来た私にも受け入れやすい。
こういう解釈でブッダの評伝を描ける手塚治虫は、やはり偉大だなあと思う。
とても自由だ。