蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№288 物事を丁寧に行う

ゼミナールの補助教材録音を、少しずつ聴いている。
何かをしながら聴くと効率よく聴けそうなのだが、この「効率よく」というのが曲者である。

何かをしながら、別の何かをする、ということがそもそも私は苦手である。
昔は、そういうことは可能だと思っていたのだが、ヨーガを学んだ今となっては、そういうマルチタスク的なことは難しいと思う。

以前はできていたように感じるだけで、実はそれは全くの誤解であった。
単に、雑であっただけのような気がする。

茶道のお稽古をさせて頂いているが、「なんとなく流す」癖がなかなか抜けなかった。こういうことは、先生は気付いておられても、口に出して仰ったりはしないものだ。
そして何年も経ったある日、自分の粗雑な振る舞いに気付いてハッとし、そこで初めて赤面するのだった。お稽古とはそういうことの繰り返しだ。

一例を挙げると、膝の前にある茶碗を取り上げ、自分の方に正面を向けたい、という場合。普通の生活の中では、取り上げつつ、何気なく茶碗を回せばよい。手間も少ない。
しかし、それをあえてしない。

一旦、茶碗をとり上げる、という行為に専心する。
近いところにあれば真横を取る。少し離れていれば手前を取り、膝上まで運んでくる。
ここでは、茶碗を膝上に移動させるだけである。
膝上で、茶碗を掌の上に乗せ、向きを変える。これは、向きを変えるためだけの行為。

言ってみればこれだけのことなのだが、以前はこの動作が、日常の中で流れるように行われていることを意識化できていなかった。

しかし、この一連の動作が、お客様の側からみて不自然であったらいけない。
心のなかでは一つひとつの動作に折り目をつけつつも、すべては滑らかに行われ、結果として点てられた茶は美味しいという境地に至るには、まだまだ時間を要するような気がする。

いつか必ず、私たちは死んでいく。
それは明日かもしれないし、50年後かもしれない。
もっともっと、と何かを「多く」求めながら生きることはしたくないなあと思う。
この一瞬のひと手間に、心を込める生き方が少しずつ上手になればよい。
年を重ねるということが、一見どうでも良さそうなもののなかに価値を見出すこと、どうでもいいことなんてないんだと気付くことに、繋がって欲しいと思う。

そうなると、ゼミナールの教材録音も、パソコンの前に正座して聞く事になる。
なかなか進まない。
ま、それでもいいか。
いいってことにしよう。