蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№846 心身テクノロジー仮説

 

日本における成人発達理論の第一人者・加藤洋平さんが帰国されていて、先日お目にかかることができました。

 

ちなみに開設から4年経つこのブログを始めるために、最後にドーン!と背を押してくれたというか、崖から突き落としてくれたのは加藤さんです。なのでハスドロの母ですね。
(ブログをやらねばならぬ!というそもそもの動機を育ててくれたのは、規夫さんです)

 

 

来春、テクノロジー哲学に関する書籍を出版されるとのことで、漫才のように楽しいセミナーではそのこともお話しくださいました。他にも「神力」という胸に刺さるキーワードがありましたが、そのことはまた改めて。

 

そしてその夜宿に戻り、私は考えた!

(先に言い訳をしておきますが、今日のブログはいつにも増して支離滅裂です。お覚悟を。)

 

人間存在も、根本のエネルギー以外の部分は道具だとYogaでは考える。そうするとですよ、五蔵を「人間存在のテクノロジー」って言っていいんじゃないの? 

なぜかというと、制御可能だから。訓練とか修行で。
意識的に操作できるようになっているのだから、魂の科学技術なんじゃないの?

 

「魂の科学」といわれるYogaの手法に従い昔から伝わってきている通りに実践すれば、心身は変化させることが可能です。試した人はみんな知っています。何らかの技術で操作可能なのだとしたら、それは道具と見做せるのではないか。

 

肉体と呼吸に関連する部分(神経の働きとか感情)は、割合簡単に制御できるようになります。意思や理智の部分は意識化・客観視が必要なので少し時間がかかりはしますが、新しい情報を採用しそれにYesが言えれば変えることができます。

 

パタンジャリ大師によると、Yogaの目的は心の働きを止滅すること

これはヨーガ・スートラ第1章第2節の大変有名な詩句ですね。
ヨーガハチッタブリッティニローダハ、というアレです。
Yoga仲間なら、「こんにちは」に等しい挨拶レベルの文言です。

 

これは、みんなが振り回されている「心」という道具の働きにより生まれる波(正確には渦)を、Yoga的アプローチでストップできてしまうことを示しています。

(注:ここでこれまで何度も語っているように、Yogaという言葉が示すのは人間存在としての理想的状態=強い歓びの境地であって、ポーズを取ることではないのですよ。Yogaと共に歩む、Yogaとひとつになる、という表現をします。)

 

また、肉体に刻み込まれた過去の記憶と、それにともなう感情の想起によりトラウマ的症状が出るわけですが、これも肉体からアプローチすることで変えていけます(やりようによっては)。

 

そもそも個別の自我が存在するということも、妄想みたいなものだということになっていますので、これも「私が誰であるか」を思い出せれば(観察者の視点が確立すれば)、個別の我という感覚は三次元というマーヤーの世界を満喫する道具となるようです。解脱の女神という大袈裟な名前を頂戴しているくせに未だその境地に立っていませんので、「自我とかただの道具なのよ」と言い切れなくて大変残念です。精進します。

 

さて、混乱しながらここまで書き進め、しかしですよ?
人間が造っていない(造り出せない)ものをテクノロジーの内に含めていいのだろうか?

 

そもそも人ってなに? 
人間の煩悩の最大原因は彼我と真我に関する勘違いなのだから、私が私という時それは真我としての私なのであって、スマホも車もアイロンも、真我以外ではあり得ない人間が生み出したテクノロジーなのであるから、やっぱり心身だって同じようにテクノロジーだろ!と思ってみたり。

 

すみません、もうちょっと考えます。
あんまり考えないでちゃんと実習やりなよ、という声が聞こえてきそうですが。