蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№221 パタンジャリ先生

今日は次女ネタから。
次女が修学旅行に出発した。
当初、香港・マカオの予定だったのだがこんな情勢で行けるわけもなく、台湾に変更になった上、気の毒なことに日程も短くなった。とは言え、初めての海外旅行にワクワクしている様子がビンビンと伝わってきて、傍で見ていてとても微笑ましかった。
色んな経験をしてきて欲しい。

さて、2年半前に受験した試験のテキストを再読している。
「インド中央政府ヨーガ指導者資格試験 オフィシャル・ガイドブック(日本語版)」1~3巻。

「ヨーガという言葉は、現在では別のものを指している」という記述がある。
『ヨーガに関する誤解』という部分だ。

30年前にヨーガを学んだものからすると、本来の伝統からとても異なるものに変化している、という。「ヨーガを単なる運動として考える人もいるが、ヨーガはそれ以上のもの」という、「それ以上のもの」という表現に思いがこもっていて、とても好ましい。

「ヨーガって、そんなんじゃないんですよ!」と言ってしまっているのだが、「それ以上のものなんですよ」という表現の方が美しいな。これからは私もこんな風に言うことにしよう。

はい、ではヨーガってなんですか?

心理、肉体、宗教性を統合し、自己実現の状態に達することを目的とする、壮大な自制法である。

という、表現を始めとして、いろんな人がいろんな表現でいろんなことを言っている。

「ヨーガは結合であり、paramatoma(神我)と jeevatoma(個我)との合一である。」という表現はかなり固くて、伝える人を選びそう。

さて、昔々、パタンジャリ先生という偉大な人がいて、ヨーガの九つの障害というものを定義されている(ヨーガ・スートラⅠ-30)。
この九つのせいで心が乱れる。

1. 肉体の病気
2. 無気力
3. 疑い
4.不注意、優先順位を間違えること
5.怠惰
6. 渇望、頑固な愛着
7. 新たな境地を見出せぬこと
8. 心の不安定さ

心が乱れると、こんな兆候が表れる(ヨーガ・スートラⅠ-31)
 苦悩、落胆、手足の震え、荒い息遣い


このようなことの他にも、「心をきれいにするには」「煩悩ってなんだ」などという興味深い話題が満載。とはいえ、読んで理解するのは難しいなあとつくづく思う。

ヨーガを勉強していると「神様」について言及されることが多いのだが、この「神様」は「自在神/イーシュワラ」といい、宇宙の創造、維持、破壊の機能を果たす。

ヨーガ・スートラを編纂したパタンジャリ先生は、このイーシュワラを「特別なプルシャ(純粋意識)」と定義していて、これまでもその姿形を現したことがなく、これからも決して具象化しないものとしている。時間によって制限されることもない。
この神は宗教的な神ではなく、ヨーガ・スートラにも礼拝や儀式に関する記述はない。

「神」という日本語が誤解を生じさせる?
神って言われると、イメージが固定されてしまいそうになる。
もうそのまま、イーシュワラとかプルシャという「力/エネルギー」と言ってしまったらどうだろうか。

などということを、テキストを読み返しながら考えていた。
娘の乗った飛行機は、四国の高松空港から出発。
今頃はもう空の上。