蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№843 シャドウワーク前の充電

今週末の加藤ゼミに向けて、貨幣制度について学んでいかねばなりません。

 

このことに関しては以前もインテグラル研究会(怪しい勉強会)で学び、その後、ベルナルド・リエターの本をはじめとして何冊かの本を手にとってぼんやり考えてきました。

 

以前の学びでは「そうか、貨幣制度とはそういうものなのか」と思って終わったわけですが、今回のゼミナールでは他の”あること”(今のテーマはベーシック・インカム)について考えるために周辺を探っているので、なんといいますか?学びの広がりというようなものをひしひしと感じます。

 

これがまた、ひとりで考えていてもドツボにハマって訳がわからなくなるのですが、他のお仲間との暖かいやりとりを通じて、今、新しく知ることとちょっとだけ知っていたこと、そして自分がそればかりやってきたことが、スッと一つにまとまっていく感じが堪らなく心地よいのでした。

 

ま、貨幣制度に関しては

「なんだよ信用創造って、ただの詐欺じゃねえか!」

と暴れたくなる訳ですが、悪いこともみんなでやると堂々としたものになるのでこの世はこわいよね。この世は神のごっこ遊びなのでなんでもありなもかもしれませんが、それにしたってこれは神の遊びじゃないだろ!と思います。人間の考え出した姑息なシステムです。

 

あ、いけない。
こういう話がしたいんじゃなかったわ。

 

そう、このゼミで新しい造語が生まれて、先日来そのことについてずっと考えているのでした。

 

皆様、シャドウワークという言葉はよくご存知だと思いますが、それにじっくり取り組むのは実のところかなり難しいと感じます。

 

シャドウといっても別に怖くも大変でもなく、自分にとって安全に扱えるものしか現れ出ないので、安心して身を委ねればいいと思うのですが、人間のエゴはそういう風には物事を捉えません。

 

なので持論としては、まずチャージされる必要があると考えます。
充電です。

 

ではここでお尋ねします。
今、この文章を読んでくださっている方々の中で、「私は万事OKで、何が起きてもナンクルないのサー。いつも満たされていて、人にもいっぱい分け与えられるよ」と、言い切れる方がどれくらいおられるでしょうか?

 

これが梵我一如の境地です、って言っても、これもまたそんに難しいことじゃないんだよ。ほんとだよ。たぶんきっと。

 

でも「そんなの無理!」と思っておられる方が多いです。愛されていないと思っているから、愛されたい、愛してると言われたい、誰も評価してくれない、誰も褒めてくれない、感謝してくれないと思っておられる方が多いのです。そしてそう思っているから、心が枯渇している。

 

私は、この枯渇感こそ、今すぐに満たされるべきと思います。誤解だからです。

 

そのためには、まず何を持ってしても全面許容。
そののち、本人のタイミングで変容。

 

相手を問題ある存在として見ない。
すでに完璧な存在として見る。
今、愛を必求めておいでの存在として見る。
必要であれば言葉を差し出す。必要であればそっと触れる。エネルギーを送る。

 

そういうことを時間をかけて丁寧にやっていけば、いつかはチャージされます。
そこからシャドウワークに取り組んで、自分の中の「抱きしめてほしい」と望んできた部分を、自分自身で抱き締めていけるようになってほしい。

 

と、いうことで、シャドウワークを補完するワークをしっかり考え抜いて、シャドウワーク&ほにゃららワーク(先述の通りワークの名称はすでに生まれているのですが、ここで私が公表してよいのかわからないので、今は秘密にしておきます)として人にも語れないかなーと、O先生と共に考えたり試したりしているところなのであります。

 

それはボディ、呼吸(プラーナ)、エネルギー、そして言葉を用いたワークになるはずです。