蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№558 ふりつもる印象を

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし   宇都宮敦

 

 

 

 

1月31日

この度の滞在場所だった五反田駅徒歩6分の宿を後にして、品川駅に向かう。
昨夜飲もうとした銀河高原ビールが1本残っていたので、よっしゃ名古屋に向かう新幹線のなかで昼からビール飲んじゃおうと決意して、アテにPAULのキッシュを買って(私はここぞというときにしか小麦粉製品を食べない)静岡駅には止まらないのぞみ号の座席に座ったら、ビール等々を入れていたお気に入りの布バッグがない。

 

火曜日に受けたシャドウワークによる内面の溝攫い作業(Yoga風にシャドウワークを表現するとこうなる)が上々だったので、ここのところかつてないいい気分。これまでが悪い気分だったわけではなくて、自分のSUKKA(苦がないことを示すサンスクリット語)が底上げというかアップデートされた気分。

品川駅のAtreをうろついててもフワフワして重力が軽くなったような。もっと洗練された言いかたで表現すると自我の精妙度が上がった感じ。粗雑体に沈んでいたエネルギーの波長が変化したような。防衛と過剰反応に使っていたエネルギーが解放された感覚。

 

で、それはいいんですが、バッグがないのよ。ビールとナッツとチョコと水が入ってた、某アパレルブランドでおまけに貰ったバッグが。あーあ、フワフワ気分で忘れ物か…。
まあでも今回も無事発見されたからよかった。フワフワ気分でなくともよく忘れ物をする私。しかしまず戻ってくる。JRの乗車券とかおみやげとか。このバッグは次回の上京時まで五反田でお留守番?してくれることになった。一安心。

 

 

さて、シャドウワークの影響がじわじわと浸透してきつつある。
15年前に境港の中野先生のところに伺って以来、コツコツと自分のなかの「まっすぐ見つめられないこと・見つめることがつらいこと」に取り組んできたけれども、これまでのワークでは上に乗っている“大事件”を扱ってきたのが、今回は大事件を起こすに至った土台・基盤に触れた感じがある。
それは、長年当たり前の決まり事として疑問も抱かなかったことに疑義を挟むことになってしまうことであり、私という存在にとっての大激震だった。

この半年、居ても立っても居られないような気持ち悪い感覚(違和感・不安感)を度々味わい、目が腫れるほど泣いた。その間にお兄ちゃんとの永の別れまであって私という存在は大揺れだったけれども、お蔭でメッキか壁かわからないものが一部剥がれた。それとも大崩壊だったのか。とにかく、今年に入ってどの方向に動くと救われるのかについての手がかりが見えてきた。

 

今、自分のうしろになにかの生きものがいるのを感じる。それはいったいこれまでどこに縮こまって隠れていたものか、今は自由を喜んでのびやかに動き回っている。どんな生きものなのかのイメージが私には明確にあるけれども、気が触れたと思われたら(いや、バレたら)皆さんがご心配になるかもしれないので黙っておこう。とにかくその生きものが自由に動き回り、ときどき私の頭をガブっと甘噛みしたりする。なかなかパワフルないきものなので、甘噛みでも私の頭皮にはタラりと赤い血が滲むが「甘えちゃって」と笑っていられる。

 

30代のある時まで自分の内的な声を押さえつけて生きてきた私は、影に向き合うことを何よりも大事だと思って生きている。ラージャ・ヨーガでは「シャドウワーク」という言葉こそ使わないけれども、内的な自己の上に塵のように降り積もっていく印象を日々掃除することの重要性を説いているし(影の概念を提唱したユングは、ヨーガに関する本も書いていることを忘れないで欲しい)、日々の瞑想はその掃除の作業に他ならない。

忙しく立ち働く心の動きを鎮め、その奥にあるより重要なもの、そして精妙なものを見つめるのは、人が現実と呼んでいる儚い夢の日々の能率を上げたり、幻に過ぎないとされる肉体の病気を無くすためなのではなく、本来はこの自我が死んだ後も存在自体に影響を与え続ける残存印象(サンスカーラ Saṃskāra)を見つめ手放し続けることを通じて、永遠の輪から脱するための作業なのだから。

 

あらやだ、えらい小難しいこといっちゃって。

要するにシャドウワークって大事だな、と改めて思った。いいことも悪いことも人は抑圧してしまっている。バガヴァッド・ギーターでは「ものごとをどちらかの極に分類することはおやめ」と教えているけれど、たぶん苦痛には救いがあり、嬉しいことにも哀しみがある。実は私は「影/シャドウ」という言葉はキライ。ヨーガで使われる「印象」の方が好きだ。


この世で経験するすべては偶然ではないというけれど、いまほんとうになにもかもが不思議だと思える。これまで耳に入らなかった曲が突然耳に入るようになったり、何の興味もなかった言葉に胸を打たれたりする(体に反応が顕れる)。これまで私はそれなりに情熱をもって生きてると思ってきた。でも少しいびつに歪んでいたような気がするし、なによりも色味が少なかったように思う。


それもこれも幼少時に私が決めた「ルール」に、この度断固抵抗すると決めたからだ。その作業を支援者と一緒にやってもらった。プロの支援者以外の応援団もいてくれる。

たぶん色んなひとの来し方のなかに、こんなルールが多かれ少なかれ、ある。
それを見出す瞬間はきっと待っていれば来ると思う。
その“時”の正しい待ち方は、自分の感覚を信じること。このための準備をボディからやっていって欲しいと思う。ヨーガは最適だと感じる。今もまた、助けられている。