蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№485 愛し、愛されたい

このひとに触れずに死んでよいものか思案をしつつ撒いている水  陣崎草子

 

 

 

クライエントさんが面白い話をお聞かせ下さった。
SMの女王様とお酒を飲まれたとのことで、森に棲む小動物のように平々凡々な毎日を送っている私には知り得ない秘密の世界の話。

マゾの方は「女王様の言うことはなんでも聞きます!」と口では言いながら、自分独自のストーリーを既に持っていて、そこに固執しておられるそうだ。女王様はその欲求に応えつつ、言葉にされない要求を汲み取って行動する能力が必要とのことで、どの世界でも王者はストレスフルな在り様を迫られるのね、と目頭が熱くなった。
お説教してハイヒールで踏むくらいなら私にもできるのではと思っていたが、心を入れ換えて謙虚になろう。レッスンをサボったら踏ませて頂こうかしら、くらい?

 

とても興味深い世界だけれど、そこに触れることは難しそう。
男性40人:私1人などという圧倒的男社会で17年過ごした。入隊した当時はセクハラなんて言葉はなかったから、胸やお尻を触られてもにこやかに反撃し、きわどい話題には「なんくるナイサー」という顔で微笑んできたが、ほんとのところは臆病なのだよ。
今は伝統的な世界でお行儀よく生きていることが心地よい。今後もこの路線で進んでいくのが良かろうと思う。女王様は眩しすぎる。

 


現在の興味関心は、専門であるヨーガ療法を超え、肉体を通じて、肉体を含むより次元の高い健康に至ること。そこには魂も、精神も、対社会的な在り様も、他者との関係性も含まれるだろう。

ヨーガ療法は、現時点で苦しさや悩み(主訴)を持つ人が健康に至る方法論。
伝統的なヨーガは、既に健康である人がより高い健康と人格の向上を目指す道であり、ご本人の視野に入っていない部分も含めて、統合的に健康が達成されることを目指したい。

ただし、伝統的なヨーガの世界では性愛やパートナーシップの領域は忌避(抑圧?)されているので、その部分は再認知されねばならないと考えている。

 

 

人は自らのうちに、他者を抱き、含んでいる。
私たちの生命原理であるアートマンは心臓内の歓喜鞘に座し、万処・万物に遍在するブラフマンと同一であり、決してわかれることがない。かつて一度たりともわかれたことがない。ただ存在する場所が違うだけだ。

そのことが意味するのは、あなたもわたしもひとりぼっちではないし、しあわせな存在だということ。喜びが一瞬の幻なのではなく、苦痛こそが幻だということ。そう信じていたいという祈りだったとしても。

そのことにYogaを通じて気付いていくならば、それは Bhakti Yoga(バクティ/愛のヨーガ)になる。
Raja Yoga(ラージャ・ヨーガ/王道、王者のヨーガ)は自助努力を通じてブラフマンを目指す上昇の道、Bhaktiは大いなるものに身を委ね、明け渡す下降の道。信仰を通じて、肉体を含む五蔵は至福に到る。もちろんYogaだから、ひとりでできる。

でもそれを他者とともに行うこともできると思う。それが意識的なパートナーシップ。
もともとわかれていなかったことを思い出すのに、誰かと一緒に過ごしたり、対話したりするのはとても大事な方法。そして修行よりずっと優しく、あたたかい方法。ただし、決して容易だとは言わない。

現代社会では、家族や職場内の人間関係がストレスフルなものに変質している可能性が高い。そういうところであたたかい関係性を渇望すると、新たな悩みや争いの種が生まれるように思う。制度に守られた関係性において幸福になるために、いったいどんな技量が必要なのか私にはわからない。だから私からは、そこでのパートナーシップ改善には触れずにおきたい。もちろんその方面を専門にしている方もおいでになるはずなので、必要な方はそちらを求めて欲しい。

 

1対1でなくてもいい、1対多でもだいじょうぶ。
だからまずは、グループでの活動に参加するところから始めるのがいいと思う。
これが私たちの考えている「第三の場」。レッスンや稽古、何かしらの学びの場はこの第三の場になり得るし、運営する側がその意識を持っていたい。レッスンの先に生じるなにかを含みつつ、そこで得られると当然期待される効果以上のものを育みたい。

 

誰かに触れることやハグすることを通じて、自分のなかの情熱に気付いてほしい。
愛し、愛されたいと思っていいのだから。
そうされる資格も価値も、あなたにはすでに備わっている。思い出してほしい。