蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№844 美しい花の如く

今日は可愛い我が子の誕生日です。

 

彼女と同じ歳のころ、私はたくましく野山を駆け回っていたなあ。例の、弾が飛び出るアイテム(64式)を手にして。

 

子供が生まれて胸に抱いた瞬間、なんだか世界が「カチッ」と切り替わって、まるで違う世界になった気がしました。パッ!と明るくなった気がしたのです。

 

もうひとりじゃないんだなあ!と思えた。救われた気がしました。

 

だから彼女には、悟りを象徴する花の名前をつけました。自分の感じていた不幸や苦悩が、彼女によって昇華されたと感じたからです。

 

それがインドの国花であり、法華の教えを象徴するものだと知ったのは、随分後になってからでしたが、自分が救われたように感じた、その感覚を無意識に「名前」というものに投影していたことを後になって知りました。

 

軍隊式教育を持ち込んだサイテーな家庭を(何しろ鬼教官だったもんだから)、こどもたちにとって気持ちいいものに変えてくれたのは、規夫先生とのコーチングでした。

 

インテグラル理論に触れて随分経つけれど、ただそれを本で学んでいるだけではない化学反応みたいなものが、規夫さんや洋平先生との関わりを通じて生まれたなと思い、そのことをとても感謝しています。

 

私はやっぱり人のことが大好きで、人との関わりによって自分が変わってきて、それは決してひとりではできないことばかりでした。先にお名前を上げた方だけでない、多くの方が私を慈しんでくれました。今も同じくです。これからも、長くご縁を頂けることを祈ります。

 

そしてそれは家族にも波及して、私が学んだことを通じてこどもたちの世界も楽(sukkah)になったんじゃないかな〜と思います。それって素晴らしいことです。「前はひどかった」とよく言っているので、相当変化したんだと思います。よかったねえ。

 

だから私も、自分が何かを教えさせて頂く方の「その先にいる方々」のことも、いつも思っていたい。

 

受けてきた教えによって、私はものを考え、世界というものを捉えています。その理解は時間をかけてだんだんと深まって、自分という存在に浸透していきます。

 

何か打撃があるたびに、自分自身の自我が揺さぶられて容器のようなものが揺らぐ気がするのですが、たぶん個別の器などはなく、すべて一つの大きな心なのかもしれません(きっとそうだ)。

 

私が従っている考え方では、小さな人間(個我)には何もできません。
すべてが大きな心=純粋意識のなかで、起こるべくして起きます。人間はそれにNOをいうことが許されていません。これが最も重要であるとされるマントラAUMの意味するところです。

 

わかりました、という応諾するしかないなかで、今を決して否定せずに生きる。

 

今、こうであることを許容する。なにもかも、今この瞬間からしか始まらないし、自分を責めることは世界を否定することになります。自分と世界は、同じもので出来上がっているからです。

自分がどんなに愚かで卑小に思えたとしても、私はイマココからやっていくのだと決めて立ち上がる。自分を許せた先に、すべての人を許すことができる世界があります。

 

私は自分のこどもが、私を今のような道に進ませてくれたと思い、そのことをとても感謝しているのです。若いときは苦しいこともたくさんあると思うけれど、すべて絶対者が調和を図ってくれているのだと信じて、今この瞬間ここにいて欲しいと望みます。

 

現実的にはさまざまな事柄が起こり、当然そのことも考えるけれど、伝統的にそういう形で(自分のエネルギーを高め、それでもって)この世界に貢献してきた方々と同じように、私も生きていたいと思うのでした。