蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№837 助けを求め、助けられる

 

これまで、何人もの方の助けを受けてここまでやってきました。

 

こういう存在は人にとって必ず必要か?というと、決してそうではないと思うのですが、私の場合は三次元的にいわゆる「師匠的存在」が必要だったということです。


芸事もずっとやってきましたので、当然そちらの師もありますが、今日語るのは、

「生きることの探求
 =どうやったら人はしあわせになれるのか
 =不幸を克服できるのか
 =Mokshaに至れるのか」

という人間究極の課題についての師についてです。

 

そのことについて教え導いてくれた方々のお名前などは、このブログのサイドバーに記載していますので、ふむふむなるほどと思ってご覧ください。

 

さて、そのなかのお一人である加藤洋平さんが、この度3年ぶりに新しいゼミナールを始めてくれました。過去にもこういったゼミに参加させてもらってきたのですが、そのうちの「黒い本出版前ゼミ」で教わったことが、今も私のなかに楔のように打ち込まれていまして、どれだけそのことに助けられたかということをいつも思います。そしていつも人に話しています。

 

「黒い本出版前ゼミ」で教わったこのことは、Yogaの学びで与えられた「どうしてもつらいときは逃げてもいいんだよ」という教えと共に、ほんとうに人を救う救済の教えだと思っているのです。

 

それは一体どういうことかと言いますと、悩み苦しんだり、挫折したときに人に頼りなさいということです。しかもこのことを、「もし頼らずに自分ひとりで悩んだらどうなるか」ということをきちんと示してくださって、それが猛烈に衝撃的でした。

 

私たちはなんとか「成長」や「発達」をしたい、もっと良くなりたいという欲求を持って頑張っているのですが、誰もが必ず壁にぶつかります。スイスイ楽にできる学びも成長はあんまりないのです(あるにはあるのですが、ベクトルが違うといいますか)。

 

そして挫折したり苦しんだとき、ひとりで悩むとドツボにハマります。


成長したかったはずなのに、ひとりで落ち込むと発達するどころか、当たり前にできていたこともできなくなるという、負のスパイラルに陥るわけです。こうなるとなかなか浮上が難しくなります。かなり辛い状態です。私も身に覚えがあります。

 

だから、悩んだ時は誰かに「たすけてー!!」と言えることが大事なのです。

 

しかしここで肝要なのは、どんな方に助けてもらうかということだと思うのです。


例えば、誰かを恨んだり攻撃したりする方向性で援助してくれる人もこの世の中にはいると思いますが、この世のありようは鏡そのものですので、思ったこと・やったことはいずれ必ず我が身に跳ね返ってきます。これは決して批判などではありません。当然ですが私もやってきました。でもその結果、自分も誰も、しあわせにはできないのです。だから「そんなことしたらダメだよ、おやめ。」と叱ってくれる誰かを、とにかく自分にとって大事な人としておきたいと思います。

 

人間にはセンサーがついていますので、こういうネガティブ方向での対応をしますと、心は重苦しく、体は具合が悪くなります。本来の生命エネルギーの方向性とは、愛、喜び、静けさ、感謝ですから、どんなにつらく哀しい体験をしたとしても、一所懸命生きた結果であれば、そこには清々しさと解放感があるはずです。この経験は自分の人生でどうしても必要であると、私に天が命じたのだという確信と共に、その痛みや苦しみを我が身に引き受けて昇華していくことが(いつか必ず)できます。できるはずです。

 

ですから私たちは、人に助けを求めつつも、命の方向にしっかり沿う様な形でその苦しみを克服していく必要があるといえます。助けを求められた人も、命の方向に沿うように、人を導き支えるという役目があるということです。助けを求めるということ、助けるという双方向性を通じて、私たちは、命そのものを祝福していかねばならない。そう思います。