蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№543 傷口がひらいて

われはつねけものであれば全身に炎のように雨は匂へり  笹井宏之


1月15日夜

新年萬龍軒初め。JK剣士が、「今年萬龍軒行ってない」って。
まだ15日だし雪で何日も籠ってたし、しょうがないよね? でも思い付きでフラッと夜の定食を食べに行った。まともに食べちゃったら身動き取れなくなるくらいのボリュームで900円。米子ではこれがふつう。東京の人に話すと「安っ!」と言われる。東京でB級中華行くのやーめた。

 

自分ってどんな人なのかなと思うこと、ありませんか?
自分のことは一番わからない。それは至極普通のことで、だからこそヨーガはとことん自分のことを観察して、過去の振る舞いから検証を重ね続けろって言う。そして心のなかのつもりに積もった塵みたいなものを搔き分けて、真我に辿り着きたいと願っている。

 

この搔き分ける仕事は一生終わらないらしい。たぶん来世でも続く。
掃除してもしても、毎日別のものが降り積もり続けるから。

できるだけ日々降り積もるものを清浄なものにしようと努めるけれども、生きていればいろんなものごとが四方八方からぶつかってきて、「おおきくなーれ!」と言わんばかりに、私に打撃を与えてくれる。

 

 

以前もここに書いたのだが、私はかなり「強い宿命」なるものをもつらしい。
博多の女性占い師に「人に惚れてもセックスはダメ、結婚うまくいきっこない、女性としてエネルギー強烈すぎる」と言われても、へーと話半分に聞いていたのだが、あれから10年以上経って、この話実は(部分的には)真実を含んでいたのではないかと認めることにやぶさかでは無い気分になってきた。

 

で、今日、すごく嫌なことを思い出した。24歳くらいの出来事。
あまりにも前のこと過ぎてすでにうすらボンヤリしてきた感があり、苦いけど懐かしい思い出… と思いかかっていたところに、この思い出のかさぶたを引っぺがして傷口に鋭いなにかを差し込むような、嫌な思いをする羽目になったのだった。

 

こんなことがあってねえ、と語れればネタであるがこれがどうしてもできなかった。
ということは、これは内省もしくはシャドウワークの対象であるということを示している。薄々以前から感じてはいたのだが、今日は明確に嫌な身体感覚が、胸から肩、そして首筋から耳へと這いあがってくる。

ハッキリ表現出来ず申し訳ないのだが、要するにかいつまんで言うと「なにかに夢中になって、裏切られ、傷付いた」経験である。

 

 

占い師が言う通り、私のエネルギーは強いのかもしれない。この活力をもって色んなことに取り組んできたのだと思う。幸いなことに師匠方はこの私の情熱を抱き留めて下さって今があるが、幸福な関係を許された限られた師匠方以外の人たちとは、痛みに満ちた別れを多く繰り返してきた。

 

親との関係も平安だったとは言えないがそれはもう既にネタである。なにしろ10数年にわたりそのことと向き合い続けてきたから。今回ふと浮かんできた記憶は、至って軽いもので、こんなことに心がグラつける余裕が生まれるまでに、私は癒されたのだともいえる。

 

しかしながら十分に哀しかったその思い出をきっかけに、私のある種の人間関係は明確に変質した。わたしのなかに打算をもって冷酷に人と向き合う部分が生まれた。だからこそ人間関係におけるある種の心の働きを慎重に避けてきたと思うし、他の関係性(例えばクライエントさんや友人)で十分に埋められると思って来た。

 

 

自分が情熱的であることに一応の自覚はある。だからあまり人に深く近付かないように気をつけてきた。
師匠方のように明らかに自分より力量が上である方には、お付き合いが長くなるにつれて、十二分に甘えることができるようになり非常に助けられているが、根本の部分で私はこの自分の暑苦しさ(美しく表現すると情熱)は決して理解されないと感じている。そういう恐れを持って生きている。だからこそこの熱が、芸や仕事という形で昇華がなされなければ、我と我が身を焼き尽くすであろうと本能的に思っている。

 

 

今、こういう課題に直面しているのに、長いお付き合いの中野先生とのリアルセッションができない。ほんとうは今すぐ境港の先生のところに行って、身を投げ出して泣きたい。じぶんのなかにこんなに哀しい思いがまだ残っていたことに、私はようやく気付けましたと。

だから今月末にHさんのところに伺うことになっている。約束させてもらったときにはこんな風に内的なものが動くとは予想していなかったが、今日もクライエントさんと話していた通り「なにかを約束(もしくは予定)したら、ものごとが動く」のだ。

 

 

この作業を私は無事やり遂げることができるのか。
その過程でなにかを喪うことになるかもしれないけれど、今、自分のなかの恐怖心を隠して足を踏み出すことはできないような気がする。

 

素晴らしいことにも必ず影がある。影は引き受けなければならない。ただ、影は決して悪いものでも醜いものでもない。この影が動くきっかけを作ってくれたひとに、実は私が想像できないような勇気と愛があって、影や剥がれたかさぶたや、その傷口から流れ出す血や膿を一緒に見つめてくれたらいいのにと心の底から思う。でもきっとそんなことないだろうなとも思う。その人のことを見限ったりしているわけではなくて、そんなしあわせな経験がかつて一度もないから、他者が私に手を差し伸べてくれることをまったく想像できない。

 

万が一そんなことが可能だったら(その人が一緒に私の内的な作業に寄り添ってくれたら)、その時私は、20何年も前の哀しい思い出とそこで傷付いた若い自分を、自分のなかに引き戻すことができるだろうか。これまで忌避してきた感情を、安心して誰かとの間に育むことができるだろうか。それとも誰かのちからを借りてそんなことができればと思う私の在りようが、そもそも間違っているのだろうか?