蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№838 あ、そうか感覚

今は次の活動(世界?)に向けての準備中なので、まるで夏休みのような穏やかさのなかにいます。

 

ふりかえると、20年前にこの道に足を踏み入れてしまってから、ときどきこういう時間が生まれています。

 

足を踏み入れたのではなくて、いつかどこかで約束して既に見知っているところに還っていっているところなのかもしれません。

 

そう、夏休み。


決してジタバタせず、黙って次の何かがやってくるのを待てるようになりました。

 

以前はつらくてジタバタして、何かを勉強したくてたまらなくなっていました。不足感や焦りから、本を死ぬほど読んで、セミナーに出たりして救いを探し求めました。それも間違っていなかったと、今はわかります。それもすべてプロセスですから。

 

今日から、このBlogのサブタイトルを変えようと思います。
前回の変更は、前の加藤ゼミが終わったタイミングだったので、ちょうど三年前。

 

あの時も大変化の時でした。大事な人との別れがありました。でもその方とも完璧に和解しました。だんだんジタバタ度合いが減ってきているのは喜ばしいことと思います。見たり聞いたり読んだり、聞かせてもらったりしてきたものが、少しずつ自分の地肉になっていっているのを感じます。そして、ひとりでがんばらなくなっています。


もうひとつのよいニュースは、自分にようやく「観察者の視点」が確立されていることに気づけたことです。

 

私が私というとき、その私は自我です。

でもそれを高いところから見下ろし、包み込み見守っているのが本来の私です。

 

これを世界中の叡智の伝統において様々な言葉で表現しますが、それらはみな同じひとつのもののことを語っていて、私はそれを絶対者Brahmanと呼ぶ文化のなかで育つよう促されました。

 

私本来の私から決して離れることはできないのですが、それを忘れて遊ぶ方が楽しいに決まっています。決してその包み込み、守る力から私たちが見放されることはないのです。

 

ずーっと瞑想をしてきましたが、なぜそれが必要なのか、また、Asanaや調気がなぜ大事なのかも腹落ちしました。みんな何気なく使っている「いわゆるYoga」をやることは、目的でもなんでもありません。

 

苦悩と言われるあらゆる物事が「あ、そうか」と明らかになる感覚、私もこれをずっと求めてきました。

 

この「あ、そうか」という感覚にとって、肉体を浄化し調えること、エネルギーの使い方を本来の自分のしあわせに向け直すこと、調気でそのエネルギーの流れを調えること、そして瞑想をすることが、非常に効率のいい方法として、今にいる私たちへのギフトとして伝えられてきているのでした。

 

これはもう、「ありがとう」というしかないです。
Yogaという言葉は残念ながら現代では違う意味で使われていることが多いから、そろそろ違うパッケージが必要かもです。私にとっては、ということですが。