蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№836 「それ」の使い方

 

これまでずっと悩み考えてきたことがあります。

 

それはYogaの理論的側面、要するに聖典で語られていることともドンピシャのはずなのですが、抽象的だしそもそもYoga的表現がよくわからないということがあり、ケムに巻かれてきました。

 

しばらく前から書いていることですが、このことについて「なるほどそういうことか」という理解に近づいている感覚があります。「わかった」と以前書きましたが、わかった感が次第に深くなっていく感覚です。

 

そうそう、そういうことだよ〜と話してくれる人も周囲に現れて、なるほどやっぱりそうだったんだと思うことしきりです。

 

今朝も朝早く(3時)に、夢と共にそのことについての情報がドーン!とやってきて、要するにこういうことかな?とAちゃんに確認すると、「そんな感じだよ」と言って頂きましたので、今日この時点での私の気づきについて、ここで記録しておこうと思います。

 

こういうことは、すでに了解の上でうまく活用している方もおられる反面、さっぱりわからなくて(かつての私のように)悩んでいる方も多々あるかと思いますので、何かしらお役立てればさいわいです。

 

 

さて、私がずっとやってきた伝統的Yoga及びその応用法は、その実践に三つの柱があります。


1、Asnana :姿勢
2、Pranayama:調気
3、瞑想

 

この三つの柱は、ざっくりいうと「1と2」、そして「3」というグループに分けられる気がするのです。「1、2」で体を調え、呼吸をきちんと行うことで何が起こるかというと、生命エネルギー(Prana・氣)が増大します。

 

この、Prana、靈氣(単に氣とも)が本日の標題「それ」にあたるものです。私のお気に入りの表現は絶対者Brahmanですが「者」とついてても決して人じゃありません。なんでこういう日本語訳になったんだろう?

 

それ=生命としてのエネルギーが増大すると、それをどう使うかが決定的に重要になります。なぜってパワーが増しているからです。使い方を誤ると、人にも、そして何よりも自分自身に迷惑がかかる可能性大です。

 

そこでこの「迷惑行為」を断固防止するためになにが必要かと言いますと、この増大したエネルギーをどういうベクトルで用いるか、それを制御する感覚と、どの方向がいいのかという知識です。このための訓練が理論の学びであり、ダルシャナ(対話技法)、そして瞑想だと思うのです。

 

瞑想というのは、バラバラの心的エネルギーを一点集中させる練習から始まります。
思っていること(望むこと、といい換えてもいい)と、それを否定する思い(そんなこと言ってもどうせできっこないし的な)が点でバラバラだったり、喧嘩してしまうと、大変な葛藤が生まれ、せっかく強くなってきた生命エネルギーがおかしな方向に浪費されていきます。

 

また、自らの内的な思いの喧嘩の末に感情を抑圧してしまったりすると、内にこもってそれが肉体に凝ってしまいます。感情は体に宿ります。Asana(体操)の実践は、こういう観点からもとても重要です。そしてこれを日々やっていくことも、日々生きていろんなことを感じている私たちには大事なことです。

 

兎にも角にも、普段「なにをどんな風に思っているか」が決定的に大事なのです。

いつもなにげなく、いったいなにを思っているかに気付かないとヤバいよということになります。

 

しょっちゅう考えていることは、ちゃんとそのまま顕現します。
それならば意識的に何かに集中して、向かうべきところをはっきりしておきたいです。

とはいえなかなか難しいので、それを行うために人に頼ろうよ、ということを次回は書こうと思います。