蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№834 神の遊びとしての海老

 

最近なかなか自由に会えなくなってしまった友達がいるのですが、この方が今、相当な悩みの渦中にいるらしく、頂くメッセージがものすごく悲壮でほんとうに読んでて哀しくなります。

 

でもいつもここにも書くように、私たちは常に、いるべきときに、いるべきところにいて、するべき体験を過不足なく、している。それはここにやってくる前に自分で決めてきたこと、もしくは決めてきたことを果たさず怠惰な状態に堕していることに対し、揺さぶりをかけて目を覚まさせようとしているだけのことだそうなので、安心して悩んでもらいたいです。

 

先に述べたことも、生きていて何も怖いことはないのだということも、連綿と伝えられてきた叡智によって今を生きる私たちに伝えられているし、根本のところでは私たちはそれを既に知っています。

 

だから、悩んだり揉めたりするのも、究極的には魂の遊び、神の戯れ=リーラなのだから、そばでみている私も安心してそっと見守っていようと思います。

 

だいじょうぶ、だいじょうぶ。
苦しみは、そんなに長く続かない。すべては自分次第だから、心を強く、高く保っていれば、自ずと状況は整っていきます。本当はそのやり方もちゃんとわかっておいでの方だから、だいじょうぶです。

 

 

さて先日、東京駅・銀の鈴で出会ったO先生のところに、なんと超デカイ伊勢海老が問答無用で届けられていたことがわかりました。かなり驚かれたそうです。そりゃそうだろ!

 

まずは伊勢海老の生態について、受け売りの知識をここでご披露させて頂きます。情報提供はCAFFE VITAの門脇師匠(に関係するある方)であります。

 

伊勢海老というのは、海底を歩いて生活しているそうです。海老の移動とは、曲がった体の伸び縮みを使って後方に進むことでなされていると思っていましたが、伊勢海老は違うらしいです。確かにあの立派なボディの可動性はあまり高くなさそうで、しなり様がなさそう。

 

その、歩く伊勢海老は、台風などで海が荒れると逆巻く波にさらわれて、うっかり網に引っかかってしまうのだそうです。そりゃもうあちこち色んなものが飛び出てますからね。


そいうわけでうっかり(がっかり?)網にひっかかちゃった方々が、いったいなんの因果か門脇師匠の元に集ってくるわけです。実に不思議です。

 

そして心優しい門脇師匠が、私に「いる?」と訊いてくださったのですが、残念なことにその頃私は銀の鈴でO先生と出会っていましたので、受け取りに行くことが叶いませんでした。

 

伊勢海老→私→いない→O先生、という連想が即座になされて、何もご存じないO先生の元に立派な伊勢海老が届けられ、家族の皆々様が度肝を抜かれ、お父さんの隠された生態に疑義を抱いた…っていうのは嘘ですけど、たまげられたそうです。そりゃそうだろうなあ。

 

そしてそのことをVITAのカウンターで知らされた私は、O先生に一言「伊勢海老」とメッセージをしました。すると立派なお頭が3つ並んだ巨大な鍋の写真が送られてきました。「これ…」という一言と共に。

 

そのとき一緒にいた友人に、「実にわらしべ長者的やろ?」と言って自慢したのでした。

 

どこにいても、つながる人は繋がっちゃうというお話、のはずです。