蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№821 癒しの場所

軽井沢から帰ってきました。24時間ほどの滞在でしたが、最高の体験でした。

 

連日雨続きだったそうなのですが、私が伺った時は抜けるような青空でした。晴れ男だった健太郎にいちゃんの霊力?を譲り受けたのか、近頃はあまり雨に降られることがありません。ホストの方に「龍神さんついてるでしょ」と言われてましたが、もしそうだとするとなかなか面白そうです。

 

とにかく素晴らしい天気に恵まれて、素晴らしい景色を堪能しながら、何もしないという贅沢な時間を満喫させてもらいました。

 


ここのところ私は、愛についていろいろと考えているところなので、機会があればいろんな方に尋ねて回っています。

 

その結果気づいたのは実にシンプルなことで、しあわせな人はしあわせな愛を語り、イマイチそうではなさそうな人は全然しあわせじゃなさそうな愛について語る(ということはそれはたぶん愛ではない)、ということでした。

 

 

しあわせな愛について語ってくれた人は、誰であれ人の行為行動を決して批判しませんでした。「いろいろあるわよ〜」と、心の底から「そら生きとればいろいろあるわな」と思っている顔で語るのでした。

 

さらには、時代や制度を超えた普遍的な価値観に基づいて話をしてくれました。たかだかどこかの国家がしばらく前に決めたようなものを盾にして、人を縛ったり責めたりするようなことを決して言いませんでした。

 

要するに、視点が近視眼的ではありませんでした。それこそ龍が悠々と空高く飛びながら、地上の有り様を「楽しそうやねえ」と思って見ているような、長いスパンで物事を鷹揚に構えて待つ、堂々たる姿勢があるように見受けられました。

 

 


昨夜、軽井沢で、なぜかわかりませんが大号泣してしまいました。今日は午後から大事な人とお話しする機会があったのですが、目が腫れてしまって恥ずかしい思いをするほどの涙でした。

 

そこは最高の場所で、最高の空間です。ここにくると人は解放されると聞いていましたが、その通りになりました。渦巻いた感情が迸って涙になって溢れ出し、自分の中の塵が流れて洗われたように感じました。

 

 

Yoga Vasishthaにも、幾度も繰り返す生の物語がいくつも語られています。あたかも人が一夜の夢でさまざまな人生を生きるが如く、実際の人間の生も、この一度きりの体験にしがみつくようなことは不要であると教えてくれています。ただそこから何かを気づきなさいと。

 

ここではない別の場所、別の時代に生きたとしても、その価値が常に変わらない大切なものはそんなに数多くはありません。

 

尊いなにかと自分が別ものであるということも、言っていません。小さな自己(自我)と大きな自己はひとつであって、決して別れることもなければ、そもそも初めから一度も別れていなかったことを思い出すようにと促してくれます。

 

自他を巻き込んだしあわせを追求すること。人を尊重しながら、自分を疎かにしないこと。自らを大事にすることと、人を大切にすることの重みに差はないのだから、誰かを大事にしたければ自分のことも尊重しなければならない。

 

時代や状況やその他諸々の瑣末なことに心を煩わされず、最も大切なものを信じ、見続けられるかどうか? それを私は今、問われていると感じます。

 

「コミュニケーションは一切を包み込むものであり、それが再確立する平安のなかで、愛は自ずと訪れる。」ACIM 15章7節