蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№500 顕れをそのまま

形なきものを分け合ひ二人ゐるこの沈黙を育てゆくべし  小島ゆかり

 

 

12月に入って初めてのお茶の稽古。
師走らしいしつらえ。

床には墨絵の短冊。先代の師匠のために墨絵の先生がお描きくださったという。
鶴首の花器に侘助。柚子肌の釜。山里棚と調和する詫びた風情の風炉先は印判の柄。

頂いたご縁を大事に思い、諦めず続けてきたからこそ見えてくるもの、感じられるようになったものがある。どんなに本を読んで勉強しても、たとえ毎日必死で点前の練習を繰り返しても、何年もの時をかけなければ分からなかったもの。


今日は黒楽が出ていたので、どうしてもこのお茶碗で点前がしたく、濃茶の稽古をさせて頂いた。随分古いもののようである。しかも四角い。これはとても珍しい。
こんなおなり(形)のものは、2017年の展覧会「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」で見たことがある。裏を返すと「楽」の印判。やっぱり。

準備を調え、点前を始めようとすると「どうもそれはノンコウかもしれん」と先生が仰る。
え?

 

桃山時代に創始された樂焼は、初代長次郎から現在まで十六代続くお茶碗屋さんである。ロクロを使わない「手づくね」で作られる。
ノンコウは、この樂家三代道入の通称。樂家歴代随一の名工、樂家の最高峰と称される。1599年―1656年。利休が長次郎に茶碗を焼かせたように、千家三代元伯宗旦に出会い、優れた作を残した。代表作は、表千家不審庵蔵の黒樂茶碗 銘「稲妻」、三井文庫蔵の赤樂茶碗 銘「鵺」など。

要するに、ものすごく貴重なもの。普通は、美術館のガラスの向こうにあるものを遠くから見つめるしかない類の茶碗。かもしれない。

ノンコウ、と聞き、茶碗を持ったままフリーズしてしまった。
楽焼は特殊な焼成方法で焼かれる茶碗で、焼く温度が低いために柔らかい。茶杓でコンコンと叩いただけでも縁が欠けることがあるという。以前も「そんな茶杓の扱いでは、楽だと欠けてしまいます!」とお叱りを受けたことがある。万が一、これがノンコウで、もしなにかあったらどどどどうしよう…と一瞬怖気づいたが、粗相なく無事お仕舞にすることができた。

一流の道具で緊張感をもってお稽古させて頂くのは、芸の上達にとってこの上ない刺激である。ほんとうにありがたい。

 

 

ところが、「先日の稽古ではこの茶碗をわかる人がほとんどいなかった」と先生が嘆息されておいでである。それはとてもお気の毒なことで、さぞやガッカリされたであろう。弟子一同が狂喜乱舞することを、想像しておられただろうに。

正直いって私も、年齢も歴も若いころは道具類にあまり興味がなかった。
点前をする自分が主役!と言わんばかりに、とにかく点前ができるようになりたかった。「やり方」をバッチリ覚えて、流れるような美しい点前をしてみたかった。まるで道具も人も空間も、自分の点前の脇役かのよう。

ところがどっこい、美しい点前は自分のことを枠外に置かないと、できないのだった。

 

 

これまでずっと、私は「愛は受け取り手の課題」だと思い、そう言ってきた。
でも先日そのことをここで書いたあと、ふと気付いたのだ。

受けとれるかどうか、ということは、そこに“愛を差し出してくれている”人がいるということ。愛は能動であるというフロムの言葉に先日触れたけれど、だれかが愛してくれていることを前提として、私は受け取り問題を論じていた。
愛されていながら「受け取ろうかな、どうしようかな」などとしあわせな葛藤をしているだけで、じつのところのどかな遊びのようだと思った。

 

 

茶歴が進むにつれて、だんだんと自分のすること自体には意識が向かなくなる。
代わりに、道具や人が目に入ってくるようになる。ものを大事に、人を大事に、この空間の、今しかないこの一瞬を大事にすることのために点前というものがあることがわかってくる。

茶という文化を通じて、この国に多彩な工芸の文化が花開き、茶席には道具が集い、道具を介して人が交流する。
心を込めて大事に創られたものを丁寧に扱う所作、人を大事に扱うための作法、そのものや亭主の心に興味をもって対話するための言葉。これらが絡み合って生み出される経験こそが素晴らしいのであって、実際に点前をする私という人間は、そこに生み出される目に見えないなにかのための黒子のようなものなのだろう。

だから私がここにいるということは、ほんとうは私のためではないのだ。

ものや空間や、ひとを大事にするために行為する主体として、私がここにいる。
私がどんなに疲れて哀しくても、点前座に座るときそのことを忘れる。
ほんとうは生きるうえでのどんな行為でもいいのであって、この場にただいること、そこに在るものを十全に感じ取り、小さな自分というものを忘れ去ってしまうことが重要なのだ。

愛を受け取るか否かの議論ではなくて、ただそこに愛があるということに気付けるように生きたい。

先生は、勉強して知識をつけなさい、ノンコウくらい茶人なら知っておきなさいと言っているわけではなく、もっと茶を愛して、この愛を受け取るために興味を持つことを促しておられる。そこにいる人のことをもっと知りたい、わかりあえたらという気持ちは、愛の現れだから。

 

大好きな「正法眼蔵随聞記」に、「大用現前して軌則を存ぜず(だいゆうげんぜんしてきそくをそんせず)」という言葉がある(二ノ四)。
大きな働きが目の前に現れ行われるとき、決まったやり方などというものはない。


どうしてもこれで点前をしたいと思わせる茶碗が現れた瞬間に、これが大きな働きだと思えるように。今、このひとと、ここにこうしていられることそのものが、なにか大きなものの働きなのだと思えるように。なにか大きなものの顕現は、こんな形ではこないなどと、決めつけることのないように。

 

 

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師走最初の稽古。
この瞬間、こうでしかありえないという空間を、師匠は見せてくれる。