蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№528 節目ではある

冬銀河古く新しき光なりいのち以前のいのちかがやかす  伊藤一彦

 

 

新しい歳が始まった。
とは言え、日本の暦では2月初めまで子年が続く。

昨年、血のつながりがないとはいえ、親族よりも親しくさせて頂いた人を見送った。
残念なことに、他にも数名の方とお別れをせねばならなかった。
なのでおめでたくはないが、節目には違いない。

中目黒で、遺影の前で杯を傾けつつ迎えた年明け。
お気に入りの鮨大内のおせち、お気に入りのワイン。

晦日の昨日は田端へ出向き、規夫師匠にお目にかかった。
日本の一般的な慣習に逆らうように、こんな日に出会ってくれる人はあまりいないと思う。有難いこと。

師匠は、現在次の著作の執筆に当たられている。インテグラル・コーチングに関するもので、たぶん日本で最も網羅的に、そして深く、コーチングに関して語った本になるだろう。
よく考えれば私が師匠にお願いして聖地・大崎のスタバで受けていたのも、このインテグラル・コーチングなのだった。
単に問題解決でなく、目の前の方が向かうずっと先を見据えて、しかし焦らせることなく支援できる、そんなコーチングを提供できる人が日本にどれくらいいるのかわからないが、私は間違いなくしあわせなひとりだった。そして今もその繋がりを維持し、育てているしあわせなひとりである。

インテグラル・コーチングに関してはインテグラル・ジャパンのHPに詳しいので、まだこの言葉に耳馴染みがない方は、ぜひこの機に下記のサイトをご覧になって頂きたいと思う。
https://integraljapan.net/coaching.htm

書籍の出版は、春頃になるご予定とのこと。
新しい情報が入ったら、このブログでも必ずご案内する。


師匠をご存知の方は容易に想像がおつきになると思うが、高い集中力で一心不乱にご執筆をなさっておいでで身体の疲労度が半端ない。
一応、ボディからのアプローチの専門家ということになっている私なので、お体の調子が悪くなるほどお仕事に根を詰めている人は香りでわかる。というのは嘘だが、メールやメッセンジャーの画面から圧は感じる。

なので最近、ヨーガ「療法」の世界観ではものすごくバカバカしく聴こえるのだが、画面に手をかざしてその方の今の調子を推し量ってみたりする。これが存外あたっているので驚く。
そういえば修行会の時にはグル(慧心師)が「私の眉間(アジュナチャクラ)を見よ」と仰って、手をかざして氣を送ってくれる。あれも同じ類のことか。

そんなことをしているやつだとはご存じないお友達が、私に心配をかけまいと「大丈夫だよ」と言って下さることがあるのだが、あなたのそのメッセージからなにかが香り立つように私に訴えかけているから、もう言っちゃったほうがいい。バレバレだから。

 


師匠に、レクティカのアセスメントを受けるといいと言って頂いた。初夏までには受けようと思う。「今の自分にどんな取り組みが必要なのか」を丁寧に教えてくれるというから、私が無い頭であれこれ悩んで実践するよりよほどよかろう。

昨日は、書こうとしている書籍のことについても聞いて頂いた。
こんなご時世の大晦日、店は軒並み締まっている。そんななかたまたま開いていた店で、ぐっとレベルを下げて私に寄り添い、話を聴いて下さる。自分がバカなことは痛いくらいわかっているけれど、この年月、師匠を敬愛してそばにいようと努めてきたことで、自分を少しだけ偉いと思った。

 

昨日ふと、アカデミックな訓練をまったく受けておらず、実践家としても感覚で感じ取るものに重きを置く自分のことを救いがたく愚かだと思い、哀しくなった。今日は本の話などしないで帰ろうと一瞬思ったけれども、それを押しとどめてあえて言葉を押し出したのは、自らの内に強く動くエネルギーをリアルに感じ、それを師匠が感じ取って言葉にして下さったからだ

「今日は感情のエネルギーが強く動いたね」というお言葉を頂いたとき、この圧の強さはなんのために与えられたのだろうと思った。
そのことにも答えなどないのかもしれないけれど、この圧をもって何かしろと言われているのならば、応えねばならない。無駄に動くエネルギーなど無いはずだから。それが例え、愚かな私のなかに動くものであっても。

 

 

今年、非常にイレギュラーな年越しを選択した。そして今朝、非常に象徴的な夢を見た。たぶん今後私は、一般的な日本のお正月みたいなものは選択しない。子供たちも独立に向けて準備を調えていくだろう。JK剣士が言うように、我が家は表面上解散していくのだ。それでいいではないか。

人を愛したいと思う。愛されることも嬉しいと思う。
でも、自分のなかの大事な柱を揺るがせにせず、愛することを貫きたい。
愛とは、比べず、恐れず、見返りを求めないもの。
誰も愛の前に自分を犠牲にしなくてもいい。耐えられないときにはそう告げればよい。
関係性が壊れても、そこに愛を感じ続けることはできる。この世にはいない存在に対する愛を持ち続けることが、人にはできるのだから。

家族という制度に対する批判的な目と、悲観的な確信を持った側に立って今後を生きるだろう。血を分けた子供であっても、例え家族でなかったとしてもつき合いたいと思える関係性を意識的に構築することに、責任をもっていたいと思う。
家族という関係性に私は酷く打ちのめされてきたし、同じように打ちのめされてきた人と語ってきた。わからない人にはわからないだろう。それでいい、まったく構わない。

 

いったい私はどこに行こうとしているのか。
コミュニケーションを大事に、私のこの圧を情熱と捉えてくれる人と付き合っていくことになるのだろう。

今日はもう朝からワインを飲んでしまったからこの後は読書をして過ごすが、明日からまた企画書に取り組むつもりである。私がどんなにバカだとしても、この世は広いからちゃんと居場所があるのだ。しあわせなことである。