蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№820 愛なのかどうか

はくたか、という新幹線に乗っています。
これから人生初軽井沢上陸です。

小学生のときからなぜかわからないけれど、上皇后美智子さまが大好きで、私のゴールデンシャドウだったなあと思います。どの部分がどんな風にシャドウなのか、改めて考えてみたいです。

軽井沢=テニスコート美智子さま

という連想ゲームがこころのなかで勝手に行われて(昭和だなぁ!)、ドキドキしているところなのですが、このドキドキしちゃうことが我が心の底にナニカアルなって感じですね。



人間が目で見て妄想するものなんて、あれもこれも投影に過ぎないのでしょうが、そうなのであればこそ、できるだけ尊いもの、美しいものを投影できるようにしたいものです。

そうでなければ、投影なんてしちめんどくさいことはしないで、ありのまま目覚めて生きたいです。


かの人がなにゆえそんなに「すごいなぁ」と子供心に思えたかというと、文句を言わず我が人生にコミットメントして生きていると見えたからではないかと。

まわりのおとなって愚痴や文句ばっかやな~、と感じていたのです。かくいう私も肉体だけは成長した「おとな」と言われている今、勘違いをして文句を云っては絶対者による愛の指導を受けるということを、懲りもせず繰り返しています。



愛ってなんなん?

という問いをもったとき、ひとつのこたえとして、yogaでは「愛の三角形」ということを教えています。

Bhakti yogaは、神に対する愛に生きる信仰の道です。その教えのなかで、愛ってこういうものだよ、この要素を押さえられてないのならば、愛のように見えるニセモノだよということを語っています。

曰く、

愛は無条件であること
比較しないこと
怖れをもたないこと


よし、この人を愛そうとこころに決めたら、決して揺らがない。まわりの雑音に耳を貸さない。こころが揺れることがあったとしても(人間だから必ずあるはず)、怖れを手放すことを選択し続ける。

子供の私には、そういうことをしておられるように、美智子さまのことが見えたのかなーと思ったりします。


それがゴールデンシャドウだとするならば、自分という者の奥底に、ずっと昔からBhakti yogaが教える愛のあるべき姿が刻み込まれていたのかなと思うのは、希望的妄想でしょうか。それともここに来るずっと前に、いつかどこかで知っていたことを、うっすら覚えているのでしょうか。



私の近くに、愛の三角形のことを(bhakti yogaのことを)全然知らないのに、これとまったく同じことを語ってくれる人がいて、そこに生きようとされています。

アホな私はその価値と素晴らしさに気付けていなかったのてすが、昨日の夜、ウィル・スミスの「七つの贈り物」という映画を見ているとき、ようやく愛の三角形のことを思い出して(それまで忘れていたわけです)、

ああー!!!

と、改めてその方の言葉の素晴らしさに気付かされました。ありがとう、ウィル・スミス。

またこの方とお話ができればいいなと思いましたし、私も三角形を充たす愛というものを真剣に考えて、できうるならばそこに生きてみたいと思ったのです。

かなりの修行が必要な気がしますが、せっかく人として生まれてきたからには、諦めず取り組み続けたいと思います。