蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№532 猛獣使い

肌の内に白鳥を飼うこの人は押さえられしかしおりおり羽ぶく  佐々木幸綱

 

 

1月3日
新年オンラインセッション初め。
山陰で炬燵に「刺さっている」というクライエントさんとダルシャナ。楽しく盛り上がったが、最後は真剣な話。家族、職場以外における意識的な関係性の構築について熱く語ってしまった。彼の今年の目標は「けっこん」であるが、これが悲惨なものに変容していかないよう、念のため初めから可能なかぎり「人と人の結び付き」についてよく考えて欲しい。
その上でどんなところに旅に出ようが、それは自由だと思う。ただ幻想はいけない。20代の、勢いと性欲しかないような結婚じゃないんだからさ。

 

 

昨日のブログで「負けた」話を書いて、今朝ふと気付いたことがある。
私は常に自由でいたい。
皆そうだよと思われるかもしれないが、案外そうでもないよ? 自らが所属する軛に、多くのひとが驚くばかりに従順である。ただしこの軛に従うことによって得られる恩恵も多くある。私はそれを可能なかぎり捨てて、自由でいることの苦を引き受けたい。

 

ちなみに私は年末年始を東京で過ごした。
通常、世間一般的には家族で過ごすらしいことになっているので、出発直前、1人家に残ることになっている家人に、私の思うところは述べておいた。述べた、それだけ。
ここで「やめとけ」とか「普通じゃない」みたいな話には、我が家ではならない。万が一話の展開が「普通」などという一般論に基づいたものになった場合、この家で今かろうじて残っている“かぞくのかたち”みたいなものは吹っ飛ぶことになる。こういったことが決してないからこそ、ここが私の家なのである。

上京時に出会う方々はインテグラル仲間が多いので「お正月なのにご家族大丈夫なの?」といった質問はまったく出ない。そんな質問が出たら興覚めである。
 

親という役割は押し付けられたわけではなく私が強く求めたものなので、私が出来ることは尽くしてやりたい。同時に、子供というのは欲しいと思っても授かれるものではないから、この子らを授けてもらったということは間違いなく天から何かしらの役目を頂いたものと思っている。

 

ところが他の関係性は違う。
人の心を制度で縛ることはできない。
かつては随分と堅苦しいところに生きていて、所属階級などの枠に押し込めようとする圧が厳然としてあった。これに反発すると現実的な不利益があるから「我慢するように」とたくさんの人から、何度も言われた。それが賢明だと。

私はこの”枠に押し込められる”感じが大嫌い。
いったい何のために我慢するのだろうか? 社会的地位?階級?それとも収入? それにどんな価値があるのか。死んだらすべてチャラである。我慢して喪われる何かのことをなぜ勘定に入れないのだろうか。我慢の結果、命すら喪った人を私は何人も見てきた。我慢は怖いくらいリスキーだ。

 

では家族はなんだろうか?
実は家族なんてデリートできる。そのことを私はよく知っている。子供の存在だって状況が許せばデリートできるし、そのように生きている人がいっぱいいる。
デリートした瞬間、思い出と呼ばれるものがゴミと化す。この瞬間の凍り付くような冷ややかさを、たぶん私は誰よりも知っている。

 

私の短い人生経験上、最もゆたかなのは意識的な他人との関係性である。
師弟、きょうだい弟子、そして尊重しあえる友人。
血縁や婚姻によってできた関係性では我が出る。子供に対してはそれがもっとも強く出る。随分それで苦しめられてきたが、大いなる修行と学びが与えられたことも間違いない。 

 

目の前のひとと真剣に向き合おうとする時、我が圧し折られる。
愛は我を曲げることでもあろうと思う。そのときちいさな「私」が痛む。
曲げても痛んでも、我慢はいけない。そんなことをすると無理が生まれる。曲げることと我慢のあいだを縫って、あなたとわたしの双方を大事にしようとしなければ。
しあわせに条件はなくても、愛には条件がある。比べない、怖れない、見返りを求めない、というBhakti Yogaの「愛の三角形」。この三つを満たす絶妙な向き合い方を、互いに見出していきたい。

 

もっとこうだったらいいのに。こうあるべきだ。
という思いに晒されるとき、哀しくなると同時に、燃える。
もし私の前に「これが愛なんだ!」といってハンバーグ定食をさしだしてくる人がいたら、「私は合い挽き肉は大嫌いなんじゃい!」といってちゃぶ台をひっくり返して逃げだすと思う。
でも互いのあいだに交流するあたたかいなにかを、あえて「愛と呼びたい」ということならば、歩み寄って抱きしめたくなるだろう。人と人の関係性は多彩であるけれども、それがどんなものであっても、そこにある互いを滋養するなにかのために、愛という言葉があるのかもしれない。

 

ということで、たぶん私と親しくお付き合い下さる方は、猛獣使いみたいな技能をお持ちなのではないか。
猛獣使いの筆頭は我が子二人である。相当に熟達しているので、ママは玉のりまでしちゃう感じ。次がお師匠様方。与えられる打撃に「ええー?!」といつも驚かされながらも、師がお勧めくださる道に入り込んでもう元に戻れなくなっている。そして絶対者ブラフマン。この方のお仕事に対して私がNOと言えることは、決してないから。

もし、あなたが素敵だと思っている枠に入れようとしたり、軛に掛けようとしたら「ガブっ!」といっちゃうと思います。
実は暴れん坊ですから、どうかお気をつけください。