蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№434 主体的に愛する

今日はバクティ・ヨーガのお話。
愛や信仰のヨーガであり、ギヤーナ、カルマ、ラージャを含めた四大ヨーガのなかでも至高のヨーガと言われる。

では愛ってどんなもの? ということについては、3つの定義がある。
「愛の三角形」と言われている。


①愛は取引を知らない

②愛は恐れを知らない

③愛は競争者を知らない

 

非常に深い話なので、言葉で語ったりしたくない気がする。
まあでも、試みてみよう。

まず、取引を知らない、ということについて。
「あなたが私を愛してくれるなら、私も愛しますよ」というのは、愛ではない。

ヨーガではしあわせということにも定義を持っていて、それは「無条件であること、理由がないこと」であるとされるが、それとまったく同じで、愛もまた主体的であって、無条件である。

世の中で愛だと思われているものが、実は愛でないということは、よくある。
「あなたがこういう人だったら、大事にしてあげてもいいよ」という関係性は、家族にもあるし、友人関係にもある。

あなたがそんな風でなかったらいいのに、というメッセージは、人の心の安定性を根底から揺らがせるだろうが、実は、親子や家族のなかでも多く発せられている(そして無言で伝えようとされる)メッセージかもしれない。

ふたつめは、恐れを知らないということ。
無条件で、主体的で、取引がなければ、私が愛せばそれでいい。それだけなので、そこに恐れは生じない。恐れが生まれるということは、失われたり、損なわれたりする何かがあるということ。

ここには、自分というものをどのように捉えているかという、自己意識(我執や煩悩)が関わってくるだろう。

自分が今ここでこうしていることに安心感を覚えられない場合、人を無条件で愛することは難しいかもしれない。
人間は多様な状態を行き来しながら生きているものだから、ときにふと悲しくなったり、信じられなくなったりすることもある。そういうことはあってもよい。

でも、根本的には、自分のからだのなかにあって安らげ、1人でいても心地よいという感覚を持っていることが大切だ。
ひとりで横になってそっと目を閉じればそれだけで十分安らげること、そして自分という存在に安心し満足しているならば、恐れなく人を愛することができるかもしれない。

自分の安心を、相手の愛を理由にして達成することはできないからこそ、ひとりでも満たされていることに対する責任が生まれてくると思う。真の自立とはこういうことだろう。

3つめ、愛は競争者を知らないということ。
愛は、愛であるからこそ大きく偉大で、誰かに分けられたら、私の取り分がないなどというものではない。

愛というのは、コーザルボディそのものであると私は感じている。
そこにある「場」そのものであり、場に満ちる「力」。
そこに、既に常に、無尽蔵にあるものであって、それを感知できるか否かだけが問われる。
今ここにあって、目を閉じることで、自らの身のうちを満たす愛を感じ取ることができるかどうか。

私にとってそれは、背筋を貫き、下腹部を温め、四肢に血を巡らせる実在のエネルギーである。その感覚をサトルボディとして感じ取ると、グロスボディ(肉体)に強い影響が及んでいく。至福の感覚。

神(万物を生じさせ、維持させるエネルギー)の愛として感じ取ったものを、その高貴なる顕れである個々の人への愛として表現することもできる。
これはとても重要なこと。

わが子への愛、お師匠様への愛、友人への愛、恋人への愛、クライエント様への愛。
様々な愛の表現のかたちがあるだろう。

愛する人の瞳を見つめるとき、そこに私たちは自分自身を見ることになる。
無条件に、恐れなく、誰かに奪われることなど決してない愛を、他者の瞳の中に見て欲しい。

その時あなたは、自分が既に満たされていて、なにひとつ欠けるもののない存在であることに気付く。

ヨーガを行っていくと、愛を信じることが可能となる安心感が自らのうちに醸成されていく。
単に体操をすることだと思っていれば、そんなことは決して起きないけれど。