蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№819 過去をずっと

マスターまりこから伺った名言に関して、さっそくお問合せをくださった読者がおられました。

 

あ(阿)!といったら即座にうーん(吽)と返ってくるような反応に、こりすのハートはぶるぶるふるえちゃいましたね。

 

なのでいくつか頂いた名言のうちの一つを、今日ご披露します。

 

ズバリ、「過去はずっと持っていたら腐る」。

 

実をいうと、これはマスターがある方(その世界での超有名人)から伺った名言だそうなので、正確にいうとマスターが衝撃を受けた名言です。

 


このお言葉、ほんとうにショックでした。

なぜかというと、Yogaの世界で、今の自分がなぜこうなのかを理解するために過去の自分の振る舞いを検証するべし、と教わってきたからです。言わば、過去を「素材」として活用するわけです。

 

しかしこの素材=過去の記憶を、今、思い出せるということは、自分にとっては今現在のリアルタイムな事象です。ということは、ずっと後生大事に持っていた腐った記憶ということになります。

 

 

聖典の教えを学んだら、その教えに即して過去の自分がいかにバカだった(無智だった)かを詳細に振り返り、客観的に検証します。言語化してレポートにし、複数の師に読んでもらいます。慣れない頃はこれが猛烈に恥ずかしかったものですが、人間なんにでも慣れるものです。3年間の課程受講中、お昼にみんな一緒にカレーを食べながら、自分のバカさ加減を披露しあいました。

 


こういうことをやっていると都合のいいことに、だんだん自分がバカであることが人間がこの世に存在することの所与の条件のようにも思えてきて、「しょうがねえなあ、ははは」という脱力感に満ちた笑いが出ます。

 

過去の自分もそんなもんなのですから、今の自分だって知れたもんです。
それなのに人は、いや私は、大いに勘違いをし、なんだかイケてるような気になってブイブイ言わせたくなります。

 


絶対者のお仕事は緻密にして完璧ですから、こういう調子に乗った自分に対して愛の鉄槌をしっかりくらわしてくれます。くらわすって九州弁ですね。要するに、教え導いてくれるということです。絶対者の仕事に対して、人は決してNOが言えません。

 

ずっと持っていたら腐るという過去ですが、振り返ると人生そんなことの繰り返しばっかりで全然成長してなかった、ということをはっきり教えてくれます。その点はすごくシンプルで、いいじゃないの!と感じます。

 

どんなものも使いようですので、腐らない類の使い方をしさえすればいいのだと思いますが、もうちょっと先に進んで超シンプルな解決策を求めるとすれば、

 

もう、考えるのやめとき

 

ということかもしれません。雑念を捨て、今この瞬間に集中せよ!

 

しかし、うんと長いことYogaの世界にご縁を頂いていながら、このことがやり抜けない領域に順次直面させられ、その都度翻弄されます。言い訳ですけどね…

 

 

心弱い者は、刺激を受ける領域から走って逃げてよし、少し離れたところで心の平安を図るべしと、Yogaは優しく言ってくれます。ほんとうはそこからまた打って出て、傷つき逃げ帰り、泣きながら平安を求め、涙が止まったら畏れつつ打って出てまた泣く、ということの繰り返しが、人が生きるということなのかもしれません。

 

そういう勇気が持てるといいと思います。人に助けを求めるしかない時もあります。自分ひとりで悩まないことは大事ですが、ひとりでじっと悩み苦しむことも大事な経験なのでしょう。

 

 

苦しみに晒されたとき、智慧しか救ってくれないということは知っているつもりです。自分という卑小な者の、人としての器を少しでも大きくすることこそが救いだということも知ってはいます。この器がほんの少し大きくなるとき、耐え難いほど痛むということもわかります。

 

私は世界と一体でありながら、同時に孤独です。

 

ひとりここに立って、圧倒的な孤独の裡に涙しながら、こんな自分がいったい誰の役に立てるのだろうかと悩みます。卑小な自我のなかに繰り返し想起する腐った記憶を超え、自らを人のために明け渡せる日は、いつかくるのでしょうか。