蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

No.747 新しいなにか

9月19日

またずいぶんとサボってしまった。でもこの間、これまでにない感覚を体感した。
あれ?なんだか違うところに足を踏み入れたような、と思っているところ。

Yogaで専門家教育を受けてシュラバナ・マナナし、そしてニディディヤーサナへと至れるように何度も何度も繰り返し「自分で語る自分自身の物語」を聴いてもらった。それは過去を素材とした、今この瞬間を生きる私の現在の物語。

 

ドロドロした醜い物語(そして今ここにいる愚かな私)に散々つきあってくれて、決して見棄てることなく寄り添ってくれた先生方には頭が上がらないな。

 

ここに生きるということは誰にとっても生半可なことじゃなくて、そもそもこうして人間やってることが病そのものなんだ。そういう理解のもとに、誰もがみんな仲間だと思って寄り添える。そういうYoga教師という仕事は、ほんとに素晴らしいと私は思ってる。

でもここに至って、もう過去由来の物語をここに持ち出さなくていいんじゃないの?ということに気づいた。

これって私にとっては大事件だって言えるくらいすごいことなんだよ?
だからこの数日はそのことを、この身にひしひしと感じて過ごしていた。決してただ単にサボっていたわけでも、やさぐれていたわけでもない。私はもう過去に毒されていない今を生き始めているんだってほんとに思えたから、この新しい景色と空気を見て吸って感慨に耽っていたんだよ。

昨日鍼治療に行ったとき、不調からリカバリーする力がついてきているからきっともうすぐ感情的にも爆発しなくなるよと言われた。私はYogaを通じて心身の意識化を学び、子供の頃からずっと長い間押さえつけて抑圧してきた力を解放した。だから活き活きと発露し爆発する自分の内的なエネルギーを、今ここに自由に生きていることを寿ぐように表現してきた。
でも今、次の表現方法を提案されているような気がする。

それは活き活きした力そのままに、まるで別のカタチに見える、なにか。

 


目を閉じれば 心の中に

まだ触れたことのない何か生まれる

耳を傾けて欲しい

そのメロディこそ きっと あなたへのラブソング

古内東子作詞 LOVE SONG)


*シュラバナ・マナナ、そしてニディディヤーサナ:
聖典などに基づく心理の言葉や教えに触れ、その教えを自らの過去の振る舞いと引き比べて熟考する。そこから深い理解、悟りに至る伝統的ヨーガの瞑想法。
単に心を集中させることはこの瞑想に至るための準備段階に過ぎず、一つのテーマに沿いつつ自らについて考え抜くことが本来の瞑想です。